世界の尺度―中世における空間の表象

 

閉じた世界

世界における人間の位置は他の人間に結びつけられる絆によってしか決定されない。16世紀か17世紀ごろ、いや、おそらくもっと後になって個人が自己を中心として知覚するようになるまでには幾世代も待たねばならないだろう。そこから、その遅れてくる転換に先立って、驚異的な事件においては不可思議なことを受け入れ、奇跡を信じるように促す傾向が生まれる。それは心を和ませる準拠になる。そのおかげで象徴的に周囲の偉大なる「神秘」の認識へ通じるようにしてくれるからである。だからこそおそらく当時の人間は、難しい生活条件や耐えなければならないあらゆる試練にもかかわらず、不安を感じなかった(われわれが判断できるかぎりでは)。人間は自分の運命の未開性を合理化するというよりは、むしろその状態になじんだ。「無限の空間」を前にしてパスカルのような人物が極度の不安に陥ったことなどは想像を絶していた。なぜなら、世界が閉ざされていたからである。無限というような概念は、哲学者らが神だけに用いた言葉だから、まったく想像もつかないことだった。

中世での「他所」、

それは広がりのなかで知られていない部分である。それは未知であり、その存在すらときには疑わしいほどである。偶然の通行人、頭陀袋を下げた姿で一夜の宿を乞うよそ者が突然、霧の中から現われ、彼らの話は一瞬、ここでは他人たち、つまり明らかにわれわれとは同類ではない人びとという感じを起こさせる。それからすべては闇夜に戻る。ただ、あるとき、その静かな夜が情報の伝播、「知らせ」の伝達、つまり事件の現状に関する知識の伝播によっていくらかは破られることになる。

前近代の大きい圧力以前では、「他所」はすべての人びとにとって中性で純粋、不明瞭で、視線にも感情にも通じない空間であった。「彼方」はほとんど非時間的存在であり、そこには、知識を拡散させた靄のなかに何か原始的な「象徴」、誘惑と罠がぼんやり浮かんでいる。それは「未知の国」であり、そのおぼろげなイメージが中世の人間の想像力につきまとい、不思議な航海、「あの世」への航海、「悪霊狩り」、危険な遍歴などの伝説を呼び起こす。
13世紀に概念上の変化が始まるが、その結果が明らかになるのはかなり遅く、16世紀になってからである。つまり人びとの心のなかで「ここ」と「他所」を分けていた静的な対立が、移動と行動という視野に向かって開かれる。「他所」はますます活動の可能性の場として現われる。

十字軍が持ち帰った植物

12〜3世紀、十字軍がオリエントから持ち帰った植物が定着、さらに16世紀に急激な変化

地方の農家の周囲の菜園で大事に栽培されてきたキャベツ、空豆、カブなどに、少しずつ南フランス経由でイタリアから渡来したカボチャ、ナス、アーティチョーク、サラダ菜、さらにアメリカから渡来したトマトやピーマンが加わる。そのころから中国産の蕎麦が地元のライ麦と交互に栽培されるが、これは1550年から1650年のあいだで、インカ産トウモロコシがきわめて緩慢に普及する以前のことである。(略)
12世紀後半にはフランスやイギリスで風車が現われるが、これもまたアジアからきたものであり、13世紀には、ヨーロッパの他の国々でも、安定した風力で確実に利用できるところへ普及する。

城壁以上に都市を本質的に表わす完全な象徴は、ひとつないし複数の門である。というのも、一般的には少なくとも二つの門が数えられるからである。人間や財の入口であり出口であるという、二面の場所である。材料を搬入し、製品を送りだす場所。城塞の弱いところであり、それだけにしっかり防御される。しかしまた平和なときには、待ち合わせたり、おしゃべりしたり、酒を飲み、食べ、取引し、吟遊詩人らが落ちつく場所である。都市が川岸に沿ってつくられているなら、門に通じる橋は象徴を完成する。なぜなら、外部との通路や連絡にはうってつけの手段となり、恵みになるが危険でもある水路だ。

都市

中世の都市は、たとえその風習が外部の人びとを驚かせることがあっても、今日、共通の空間を喪失したわれわれの巨大都市において感じられるような不安感は起こらない。15世紀を通じて都市の文学や絵画の表現が個性化しはじめる時期は、伝統的な安定が初めて破れる時期と一致している。たとえば都市面積の拡張、保安や衛生の必要、宮殿の建造、おそらく階級的精神の育成、そのようなものが15世紀から16世紀にかけて公的空間と私的空間との漸進的な分離を招いたのだろう。道路には石畳が敷かれ、おそらく都市または支配者らの栄光を賛美するように彩られた水くみ場を備えているが、その通りはもはや完全には私の道ではない。その道路は「すべての人びとのため」の道であって、言い換えれば「誰のものでもない」道を意味する。

騎士団

騎士団はとっくの者に現実の空間から退いていた。1300年から1500年までに、しだいに軍事的重要性を失った。1302年のコルトライクの戦いで古い英雄主義的形式に弔鐘が鳴らされた。騎士にはもはや世界への影響力はない。これからはどんな征服も禁じられ、実際に空間を奪うこともできない。15世紀には大砲が普及するので、騎士の存在価値はますます下落する。騎士は、過去を反芻したがっているような、どこかの大領主を相手に奮闘し、少なくとも架空の空間を保有しようとする。そのため騎士団組織が増加し、企画され、構成された遍歴が厳粛な「誓約」らしいことから開始される。一対一の騎馬槍試合、多人数の馬上槍試合、挑戦試合、決闘試合、これらの催事は主催者の勢力の及ぶかぎり遠くまで、伝令者らの派手な行列で幾月も前から宣伝される。
(略)
決闘はお祭り騒ぎだ。その日時と場所が決められ、一般の目に立派な象徴性を示すように準備される。決闘が展開されるのは、もはや暗い森の中とか、人里離れた恐ろしい未知の場所ではなく、立派な競技場を舞台にして、陽光をいっぱい浴び、衆目を集めるような儀式の規則にしたがって実施される。

地図

地図はなんらかの方法でその歴史を記憶にとどめる。だから1400年より以前の中世地図の多くは、いつも聖書や古代作家の教えを反復している。
(略)
空間的現実というよりはむしろ、文化的伝統に制約されながら、描く図像を表わす。地図を生みだす図形化・象徴化という手段は情報の喪失をともなうが、他方では、そのように「原型」を練り上げることによって、ある意味では虚構の作品を作ることになる。
(略)
だから一枚の地図は記述された一ページとしては読めない。むしろ「作品」として読まれると同時に解読されなければならない。中世前期の地図作製者は、その要求をよく知っていて、神学的な「地球」観のために地図の普遍性を利用した。事実、地図はその情報機能とは別に、地図を調べる者の想像力に働きかけ、またそのレヴェルで、一般的規則として地図を媒体とするコミュニケーションが成立する。

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