「酒のない社会」の実験

大戦前の愛国心高揚とドイツ系市民への憎しみであっさり憲法修正禁酒法成立。

禁酒法―「酒のない社会」の実験 (講談社現代新書)

禁酒法―「酒のない社会」の実験 (講談社現代新書)

なぜ禁酒法時代なのに『偉大なるギャツビー』のパーティーが可能だったのか

第18条によって禁止されたのは、「酒類を飲用目的で製造、販売、運搬、輸出、輸入すること」だった。つまり、禁酒法とはアルコール飲料の製造や販売などを禁止した法律であって、決して飲酒行為を禁止したものではなかった。したがって、密造酒を買って飲む行為は違法ではなかった。(略)
買い溜めしておいた酒で堂々と行なう自宅での飲酒パーティは許されたが、自分一人で飲むために家でこそこそ酒を造ることは、立派な「憲法違反」だった。経済的に余裕のある人は、密造酒を買ってその場で飲んでしまえば、何らとがめられることはなかった。この点で、第18条は、飲んだくれを社会から追放することを意図したというより、むしろ酒造業者や酒場などの小売業者を、廃業に追い込むことを第一の目的として成立したと言える。

移民問題から禁酒組織は政治的圧力団体に変化

1840年代後半に始まるアイルランドやドイツからの移民の増大は、アメリカ社会に緊張と文化的摩擦を招いた。(略)
移民たちは、アングロ・サクソン系に代わる新たな労働者階級を形成し始めた。彼らの中には、安息日を無視して、同じ民族的背景をもつ者が経営する居酒屋で、母国語を話しながら飲酒をし、深夜町の通りを泥酔状態で騒ぎ回る者もいた。
そこで禁酒運動家たちは、プロテスタント的倫理観に合致すると自らが考える「素面」という生活習慣を、その多くがカトリック教徒の移民に認めさせる必要性を感じた。しかし、以前の同質的だった社会とは異なる多元化した環境の中で、「道徳的説諭」の有効性は疑われ、法律による強制が支持されるようになった。それまでは個人的な道徳問題としてとらえられていた過度の飲酒が、社会問題として扱われ、その解決策として酒類の製造・販売を禁止する法律、つまり「禁酒法」が提唱されたのである。「道徳的説諭」の時代には、禁酒誓約書へ署名する会員を集めることに奔走した禁酒組織は、これ以降は政治的圧力団体へと性格を変えていった。

メイン州を皮切りに州レベルでの禁酒法が成立するが当然激しい反発を招き、南北戦争へ向かう微妙な時期でもあり政治家は分裂を招く禁酒法を避け、一時期運動は沈滞化。

  • 「マシーン政治」

「貧しき者の社交場」

世紀転換期の酒造業界は、ドイツ系市民がそのほとんどを占める醸造業者に支配されていた。そして多くの酒場が、酒造業界の系列下に置かれ、売春や賭博とそれまで以上に強く結びついただけではなく、都市を中心とした地方行政を左右する「マシーン政治」の場となった。(略)
[ハイソな社交場は中流以上向けだったので]
酒場は徐々に労働者階級のための大衆的なものが多くなった。世紀転換期の酒場は、別名「貧しき者の社交場」と呼ばれた

酒場の「社会福祉活動」

ただ憂さを晴らしに行くだけではなかった。日々の生活と仕事の世話をしてくれる者を求めて、移民たちは母国語で情報交換ができる、同じ民族的背景をもつ人物が経営する酒場へ、足を運ぶようになった。酒場の中には、貧しい人びとのために食事や宿泊施設を無料で提供したり、仕事を斡旋する所もあった。
このような「社会福祉活動」を行なったのは、酒場と直接関係をもつワスプには属さない政治家である場合が多く(略)
自ら市会議員になった酒場の主人は、「地区ボス」として政治権力を握り、禁酒法に反対する人物を知事や市長に担いで「マシーン政治」を展開した。彼らは、知事や市長選挙での集票活動と引き換えに、例えば市の水道局員、警察官、消防署員などの公職を手に入れ、それを支持者に分配した。(略)
当時のアメリカの指導者、そして反酒場同盟のドライ派たちにとっては、このような事態は、放置することが許されない「腐敗」以外の何物でもなかった。

愛国心高揚とドイツ系酒造業者への憎しみ

アメリカがドイツと戦闘状態に入る1917年頃には、国民の愛国心が高揚すると同時に、禁欲的な生活を強いる社会風潮が一段と広まった。醸造業者のほとんどがドイツ系市民だったことも、禁酒法運動をさらに活発なものにした。また、戦争という非常事態は連邦権力の拡大に貢献し、平時ならば州権との関係で強く主張されたであろう憲法修正に慎重な意見が、予想外に弱かった。時宜を逃さず改めて提出された修正法案は、多くの国民が戸惑うほどの連さで、1919年1月16日に、合衆国憲法修正第18条として確定されたのであった。

第18条の執行法である「全国禁酒法」(通称・ヴォルステッド法)。
曖昧な表現

どのような酒類を規制の対象にするかという点について、原文では最終的に“intoxicating liquors”という言葉が用いられた。当初急進派は、“alcoholic drinks”という表現を用いるよう主張した。「アルコール性飲料」と訳される後者では、アルコール分が微量でも含まれていれば、あらゆる酒が自動的に規制対象となってしまう恐れがあったため、穏健なドライ派から反対の声が上がった。彼らは、分裂を回避するため妥協的態度をとる急進派を説得して、“intoxicating liquors”という言葉の使用を認めさせ、低アルコール度の酒を対象外とする解釈を可能にした。
そもそも“intoxicate”とは、「人を酔わす」という意味をもつ動詞だったため、“intoxicating liquors”とは「人を酔わす酒」となる。この「酔わす」という言葉も曖昧だったが、これを「泥酔させる」と解釈する穏健派にとって、2〜3%程度のビールは、当然規制の対象から外されるはずだった。ちなみに、当時一般的に“intoxicating liquors”は、蒸留酒のみを指す場合が多かった。

[左に行くほど禁酒派]
ボーン・ドライ*1>ドライ>モイスト(中間派)>ウェット

また、憲法修正案の禁止事項に関して、「飲用目的で製造、販売、運搬、輸出、輸入すること」とし、購入、飲用、所有に言及しなかったことで、個人の自由な選択権を主張する穏健なドライ派にも配慮した内容となった。もし、購入、飲用、所有を禁止する「極端」な条項を合んでいたならば、ドライ派の中から多数の脱落者が出て、修正案の成立を危うくしたと考えられる。急進的ドライ派のこの妥協によって、修正案の速やかな議会通過が可能になったのは事実だ。しかし、購入や飲用行為そのものが違法とされなかったことで、酒類の密造や密売が増幅される懸念を、急進派が抱いていたことは明らかだった。それは、すでに州レベルの禁酒法を執行する中で見られていた現象だったからだ。

企業家が反禁酒に転じる

[生産性向上につながると禁酒派だった]
企業家たちがウェット派の先頭に立つようになったのかというと、実は次のような理由があった。それは、第18条の施行により、自動的に廃止となった莫大な額の酒税(略)の補填に、政府が個人所得税法人税を引き上げようとしたことだ。
[しかし本音は吐けない。大義名分が必要。そのプロパガンダは]
憲法を修正して禁酒法の網を国中にかけることは、連邦(中央)政府による、地方自治に対する権力の乱用に当たる」というものだった。

禁酒法が本来私有財産である酒類の製造や販売を否定することから、それを強力な国家権力の表れと見なし、当時のアメリカでは恐怖の代名詞だった、ロシア革命における「ボルシェヴィズム」と結びつけて宣伝する者もいた。

さらに取り締まる側の汚職腐敗、犯罪組織の巨大化

そしてなによりも世論に影響を与えたプロパガンダは、舞台監督のジーグフェルドのように、禁酒法がそれを犯す人間に、罪の意識を感じさせなくしているというものだった。これは、アメリカに法律無視の風潮がはびこり、社会に無秩序と混沌がもたらされるのではと、憂国の念にかられる者にアピールした。

禁酒派リーダーの醜聞につづき、大恐慌がとどめを

禁酒法時代のアメリカ経済の成功を、ドライ派は禁酒法がもたらしたものとさかんに宣伝した。ウェット派からの攻撃に対しては、ドライ派は必ず経済論争で反論した。確かにこの主張は、大恐慌が勃発するまでは、それなりに説得力をもっていた。1928年の大統領選挙でも、国民は禁酒法に不満を抱きながらも、経済的繁栄をもたらしてくれたと彼らが信じる、与党共和党のドライ派候補者フーヴァーを選択した。

ドライ派・学者の論理

禁酒法によって労働者の過度の飲酒問題が軽減され、企業は効率化を進めて生産性を上げることができた。また、以前は酒を買うために使われた「無駄金」が、禁酒法によって各家庭で節約され、それが生活向上に必要な物の購入に充てられるようになった。さらにこれが、いっそうの生産と収益の拡大や高賃金を生み出すという、好ましい循環につながっているというのである。
ところが、大恐慌が始まり、1000万人を越える失業者が巷にあふれ、彼らが食料の無料配給や仕事を求めて列をなすと、禁酒法の経済的効用を説く「神話」は崩れ去った。

*1:骨の髄までドライ