根回しとタウンミーティングと税のすりかえ

中世人と権力-「国家なき時代」のルールと駆引-中世ヨーロッパ万華鏡1

中世人と権力-「国家なき時代」のルールと駆引-中世ヨーロッパ万華鏡1

主君の寵愛で出世できたか

[中世の宮廷を]主君の寵愛をかちえるための油断も隙もない戦いの場としてイメージしたとしても、決して間違ってはいないだろう。しかし興味深いことに、寵愛を意のままに授けたり打ち切ったりできるはずの当の領主や国王は、そうしたシステムの中では絶対的な地位を築くことができなかった。取り巻きが結束して不公平な措置に反発するような事態を招きたくなければ、主君はそれぞれの忠臣の地位や立場に応じて寵愛を配分しなければならなかったからだ。カロリング朝時代にはすでに貴族たちが政権運営に深く関与し、その要求をまず第一に考慮せざるをえないのが実情となっていた。成り上がり者がすばやく出世を遂げる余地などは、ほんのわずかしか残されてはいなかったのだ。

「根回し」は日本特有じゃないYO

協議に関して重んじられていた慣習を付け加えるなら、決定に至るまでの過程を開示するという原則が貫かれていたことがあげられよう。(略)
ただし、だからといってすべての決定が公開での協議によってなされていたと見なしたりすれば、致命的な誤りを犯すことになるだろう。公開協議に先立って、内密の事前協議が行われていたことを念頭に置いておかなければならないからだ。案件についての合意は、すでに事前協議の段階で成立し、公開協議の場での「落としどころ」に至るまで根回しが終わっているのが普通だった---もっとも今日の連邦議会で行われる討論にしても、非公開の党内会議や委員会で事前に根回しが行われている点ではさして実態に変わりがないわけだが。ともあれ要するに、中世の公開協議は多分に「見世物」的な性格を持っていたということだ。たとえば、国王が内々ではすでに合意に達している問題を改めて公開協議の場に持ち出し、助言者たちはみずからの役割を心得た上でしかるべき発言をする。そして国王はその助言を受け入れ、全員の同意のもとに決議に至る、というように。
(略)
つまり、決定の場にみずからも加わったという意識が動機づけの面でプラスに作用し、それを実行する際の弾みとなることをよく知っていたのである。

「支配者の美徳たる寛容」を捨てた「王座についた最初の近代人」フリードリヒ二世

暗殺者たちはまずその目を抉られた。悪魔によりすでに内なる目を曇らされていたからである。ついで彼らは馬の尻尾に繋がれ、地べたを引き回された。汚れなき血を大地に注がんと企てたからである。なかには生きたまま近くの海に投げ込まれた者もあった。忠臣に苦杯を勧めたからである。また空中に吊り下げられた者もあった。恥ずべき謀りごとにより空気を汚したからである。そして最後に彼らは皆、火炙りの刑に処された。こうして取り押さえられることで、誠実の火がすっかり消えているのが明るみに出たからである。

盟約〜友愛

[都市住民の宣誓共同体は新しい発見ではない]
むしろ中世初期以来、社会の多くの領域で、庇護と支援を期待できるような輸を広げるために実践されてきた結びつきの形態を利用したにすぎないのだ。盟約によるそうした結びつきは、はやくから「作られた血縁関係」とも呼ばれてきた。その構成員たちが皆、親族と同じような関係になることを目指していたからである。また、ある地域でそれに属した者たちが皆、兄弟のごとき相互支援を誓い合ったという「友愛関係」(プラーニッツ)もまた、都市の宣誓共同体とよく似通った存在である。

都市の自治容認

12世紀以降になると国王や貴族は、原則的には都市の発展に反対せず、むしろ都市の建設や特権の賦与によって急速な発展のための下地を積極的に用意し、市民が経済的条件の向上や自治に関心を特つことにも理解を示すようになった。とはいえおそらくこうした政策は純粋な無私の精神に発したものではなく、そこには経済の活性化によって都市領主みずからの懐を膨らませようとの思感が絡んでいたと見てまず間違いないだろう。

税のすりかえには「タウンミーティング

[15世紀後半]本来は目的が戦費に限定されているはずの特別税が、なしくずしに年ごとに徴収する一般税へとすり替えられたことを意味している。(略)
[こうした]すり替えは、支配権の性格に根本的な変化をもたらした。支配者の決断によって直接的持続的な打撃を蒙る人間の教が、飛躍的に増加したのである。もはや支配権は国王、貴族、教会のみの問題ではなく、社会の中で支配権と関わりをもつ人びとの割合がどんどん増えていった。いわば領内の全住民が、多かれ少なかれ支配権行使の対象となり手段となったのである。しかしそれに伴って支配者たちの側も、新たな要求をつきつけられることになった。これらの新しい「臣下」をすべて味方につけるべく、彼らの目線で語りかけ、コミュニケーションをはかる必要に迫られたのである。これがこの時代に世論への働きかけを狙ったプロパガンダが急激に増えた理由の一つでもあるのだが、より重要なのは、税金問題をきっかけに両者のコミュニケーションが制度化されていった点だろう(略)
等族議会はごく散発的にしか開催されず、ほぼ税金問題に関してのみ発言権を持つにとどまったものの、各々は地域内の利益の代弁者という自覚を持って議会に臨んでおり、結果的に領邦内の全住民が臣下として公と向き合い、重要な提言を行うという状況が生まれることになった。とはいえこの主君と臣下の新たな対話の場は、たいていの場合かなり一方的なものとならざるを得なかった。

  • どうでもいいラップ、聞いてください

図書館でYO、アラーキー特集の美術手帖を読んでたらYO、加納典明がYO、えらく真面目な文章を書いててYO、しまいにはハンナ・アーレントまで持ち出す始末でYO、意外だわあと思ったらYO、加藤典洋だったYO〜〜〜〜。