文学話のとこを主に。
下町の悪ガキ
芥川のそういう面を典型的にいうなら堀辰雄とか立原道造とか育った場所も同じようなところです。堀辰雄だってあんな国籍不明のきれいな話を書くガラでもないし、立直道造はもう少し裕福な商家の出ですが、場所は同じようなところです。そういう人は現実離れしていくか、となりの家の米櫃を覗いたみたいな小説を書くかそれしかないのです。東京の下町というのは特異なところで、それをかわしながら文学的に一家をなしていくのはそれしか方法はないとおもいます。
早く死にたい
[批評を確立したのは小林秀雄だが]
なんていっていいのか、一種の思想オンチです。芸術オンチではないですね。あるいは文学オンチではない。(略)
日本の古典のなかで思想的な問題でこれを抜かしたら問題にならない「一言芳談」というのがあるんです。浄土系の坊さんたちの短い言葉を集めているわけですが、それはすごいもので、つまりこの世よりあの世のほうがいいんだと公然といっている。これは日本の思想史上でピカイチのものですが、小林秀雄は残念ですけど、そのなかから一番つまらないところを挙げているだけなんです。(略)
法然から一遍に至るまで、露骨にといったらいいのか、率直にといったらいいのか、もうこの世はだめだから浄土にいかないといけないとか、そのためにわざわざ食べないで死んでしまう坊さんもいる。それから一遍みたいに(略)無一物で旅から旅へ歩いて、それで死んでしまうのが一番いいんだということを真正面から書いています。そんなことばかり書いてあるものは日本でも初めてだし、たぶん世界的にもどこの宗教もいっていないし、一遍のようにやってしまっているところもありません。
こういうのを読んで、小林秀雄はなんともおもわなかったのかなあ。これに感動しなかったら話にならないじゃないかとおもうんだけど、彼は感動していないですね。(略)
宗教の専門家が「とく死なばや」といっている言葉に触れないというのは思想オンチとしかいいようがないです。
親鸞
一遍はこの世はだめだから早く死にたいといいますが、親鸞は一切いわない。人はいつ死ぬかわからない、わからないことをいかにもわかったように重要視するのはおかしいからやめにしたほうがよいといっています。これも大思想だとおもいます。
村上春樹の安原告発文における「高名評論家」とは
安原くんがわざわざ素材を江戸時代にとって小説らしい文体で小説を書いてぼくのところに持ってきたのですが、これが読めたものじゃない。「いや安原さんよ、あなたよく新聞に作家の悪口とか書いているじゃない、あれにあやをつけて書けば小説になるよ」といったんです。村上春樹が「ある高名な批評家が自分*1の小説を誉めたといった」と書いているのですけど、「ある高名な批評家」とあって名前はでてないけど、おそらくこれは俺のことじゃないか(笑)。「高名な」という理由はないんですよ。(略)
おそらく安原くんは、ぼくが誉めた誉めたと誇張していったんじゃないかな。ぼくは誉めたことはないのにね。それから村上春樹から読んだこともないくせに「高名な批評家」といわれる筋あいはないわけです。
理想の給与体系
笠原さんのいわれた大学の理想主義について、ぼくが前からいつも感じている不服があって、たとえばいまの例でいうと職員も教授先生も平等な給料で、というのは一見いいようだけど、それはちがうんじゃないか、といつもおもっていました。(略)
上役が主観であろうが好き嫌いであろうが、「こいつは気にくわない」とおもっている人には給料の上げかたが少ないということなどに関しては自由にする。しかしいまいった勤続年数などの条件については、勝手に主観を交えて左右してしまうことはしない。両方にそういう限界を設ける。それでもってどっちのほうが勢いが強いかどうかはその都度ちがうでしょうから、限界線が働く側に有利になったり、経営者に有利になったりすることはあり得る。
だけどある限界以上は給料は勤続年数によって決まるとして、上役の文句はいわせない。両方とも限定を作っておくということが重要です。これがぼくの考える理想の給与の形態です。
平等はあんまりいいもんじゃない
現在の社会のなかで平等を謳ってそれが一見よさそうに見えるけど、現実の状態からいってそれを要求するというのはある範囲でやるのがいいとおもいます。結局そういうやりかたが一番いい。平等というのは一見いいように見えてあまりよくないんだ(略)
一般社会においてこの平等というのをやると、だいたい平等になった者のあいだで感情的にぎくしゃくするのです。上役とのあいだは仕方がないとあきらめている人もいるし、あくまでもけしからんという人がいろいろといるわけで、だから規定が必要なわけですが、それよりも大勢の人が働いているときの問題で一番壊れやすい原因は仲間同士なんです。たとえば悪平等だと、あいつがおれと同等というのはおかしいじゃないか、というふうに仲間同士の問題が一般社会と食いちがっているとして、起こりやすいわけです。
職業的組合の欠点
これを当時の総評にいったって全然話がつうじませんね。なぜお前そんなことを考えるのかとなって。いまの連合だったらなおさらつうじないですけど。あんなところの幹部なんかになっている奴はロクな奴じゃないとぼくはおもっています。つまり元の職場に帰ると給料が減っちゃうわけですよ。組合の給料はいいですから。だからいったん幹部になってしまうと、代議士にでもなろうという以外方法はないわけです。(略)
そういう面だけでいうと資本家は両方に、経営者にも組合幹部にも資金をだすのです。経営者というのは利口ですからどっち転んだっていいように両方にだすのです。ぼくはどっち転んでも安心だとおもっている奴をひっくり返すようなことをしたいなあとおもいますね(笑)
思想の可能性
いいことをいっているとか多くの人の役に立つことという外観、外見をとらないことが必須条件だとおもえるのです。
いまいいことをいっている人は全部ダメとおもったほうがいい。それだけは確実だとおもいます。道徳的な善悪はもちろんですが、思想的に知的によいことをいわざる得ないはめに陥ったときには用心深くというか、いいことをいっているのではないよ、という形をとりながらいいことをいう以外にないとおもいます。それしか未来の可能性はないのではないか、とぼくはおもいます。
*1:安原氏