モダニズムとハーレム・ルネッサンス

ミンストレル・ショー

黒人が日常的に使っていること、卑近で身近な表現、つまりアメリカ黒人の生活にとって当たり前で当然と思えること、そうした中からさまざまなものを取り上げて誤用すること、あるいは記憶としてそのうちの一部を選ぶといった類の仮面をつけて喜劇へと仕立てることによって、アメリカの白人たちはアメリカ黒人の意味体系との関連だけで「意義をもつ」専用の仕掛けを作り上げてきた。ミンストレル・ショーとしての儀式性をあくまで守り、かつ陽気に騒ぐ人でいっぱいの芝居小屋で狂ったように浮かれ騒いで繰り返し演じること、それはまさに劇場の扉の向こう側、白人たちの内心の揺らめく炎の向こう側にいる「正真正銘の」アメリカ黒人を意識してのことであった。つまり、黒人の男女は人間性の欠落した言葉を誤用するものたちで、一日中のん気に楽器をかき鳴らし鼻歌を歌っているどうしようもない奴らか、さもなければ、ガス燈の舞台で偽造されているように、白人だけを残すことになるリンチという最終的な悪魔祓いにふさわしい凶暴な奴らだというふうに白人に思い出させること、そこにこの仕掛けの意図があったのである。

ブッカー・T・ワシントン自伝

『奴隷から身を興して』

奴隷解放という]偉大な日が近づくにつれ、奴隷居住区にはふだん以上に歌があふれた。それらの歌はいままでより自信に満ち、朗々と鳴り響き、夜遅くまでつづいた。プランテーション・ソングの歌詞は、そのほとんどがなんらかの形で自由に関連していた。本当のことを言えば、彼らはこの同じ歌詞を以前にも歌っていた。しかし彼らは用心深く、これらの歌に出てくる「自由」は来世にかかわるものであって、この世の生活とは無関係だと説明していた。ところがいま、彼らはおもむろに仮面を投げ捨てたのだった。彼らの歌に出てくる「自由」はこの世における生身の解放を意味している、彼らはそのことを知られてもいっこうに構わないと思っていた。

「名づけなおし」に関する記述

「どういうわけか、前の所有者の姓を名乗りつづけるなんてできないという感情が、黒人たちのあいだにいき渡っていた。彼らの大半は、前の所有者とは別の姓をつけた」

チャールズ・チェスナット『女まじない師』

まじない*1は変容の力であり、それが固定的で認識可能な「もの」だとする「形式」の定義を融解させる。奴隷制によって「物」あるいは「純粋動産」とみなされてきた黒人の男たちは、まじないを通じて季節の植物、木、あるいは灰色の狼に変容させられる。他方、白人の男たちは、無愛想で虐待される「新入りの黒んぼ」に変質させられる。黒人の子供は、ハチドリやマネシツグミに変えられる。黒人の女は猫になるし、ある年老いた黒人の男の足が内側に反っているのも、まじない師の「復讐」でラバに変えられたときの名残りなのである。

「クロンボのジョーク」

「いいかい、必ずおらたちが投票するみたいに投票してくれよ。おらたちは新聞をあんまし読めねえが、投票の仕方は知っとる。おらたちが投票するみたいに投票してくれ。(略)おらたちは白人のことを見守っとる。白人がどっちの側に投票しようとしとるのかわかるまで、おらたちは白人のことを見守りつづけとるだ。そんでもって、白人がどっち側に投票するつもりかわかったら、おらたちはそれとは正反対に投票するだ。そうすりゃ、おらたちが正しいってことがわかっただ」