アンビエント・ドライヴァー・その2

前日のつづき。

「一見複雑そうなもの」とのちがい

音楽をつくる前は、無秩序状態で混沌としている。それを整理し、資料を揃えて、メロディをつくったり捨てたりするプロセスを経て、徐々に形になってくるわけだ。同じプロセスを辿らないで、同じように複雑な結果だけを望むなら、あちこちからの寄せ集めで一見複雑そうなものをつくるしかない。ところが、そうしてできたものには捨て去った「外情報」がないから、複雑なものにはならないのだ。複雑性というのは、いかに多くを捨てたかによって生まれるのだから。

「もし、過呼吸におそわれたら、素早く紙袋を口にあて、急いで口で吸え」
 

細野晴臣式パニック症候群対処法

[B級パニック映画の主人公が過呼吸発作の人に]
「自分の吐いた息を吸え」と言って袋を渡す。苦しんでいた人は、口に袋をあて、自分の吐いた息を吸うことで発作が治まった。それを見ていて、僕は「これだ!」と思った。
以来、完治するまではつねに紙袋を携帯していた。とくに、交通渋滞に巻き込まれると発作が起きやすいので、車には袋を常備した。運転しながら紙袋を口に当てている姿は、周囲の人からはまるでシンナーでも吸っているように見えたのではないだろうか---こちらはそれどころではなかったのだが……。ともあれ、この方法が効いて、僕はパ二ック症候群と縁を切ることができた。

ルーツが露わになるエレクトロニカ

タンゴを聴き始める前は、エレクトロニカ一辺倒だった。エレクトロニカには、民族音楽のような側面がある。テクノをやっているうちにだんだんわかってきたのは、この種の音楽をやると匿名的になっていくと思いきや、逆のことが起こるということだ。このジャンルでは、ある音楽を最初に聴いたとき、そのつくり手の生まれ育った背景やその人自身の全体像が音になって表れる。つまり、自分のルーツが露になる。

本来の音楽のあり方

僕がそのことに気づいたのは、猿田彦神社(伊勢)の秋の祭礼「おひらきまつり」で即興演奏をしているときだった。ほとんどの場合、僕はがらがらのような鳴り物を鳴らしているだけだったりする。それをタイミングよく鳴らせると気持ちがいい。別に間違えることもないし、覚える必要がないから忘れることもないし、うまい下手も関係ない。観客は大勢いるか、神社の境内でステージも比較的低く、雰囲気は和やかだ。中央には祭壇があってそこで火が焚かれている。祭壇という第三者があるおかげで演奏家と観客という二極が融合する。その煙を見ながら、観客をあまり意識せずに、煙草のように音楽をくゆらせる。そうすると、実にリラックスして演奏を楽しめるのだ。その感じを味わってからは、これが本来の音楽のあり方だと思っている。

広いレンジは不要

テクノロジーの面では、これからは96キロヘルツという広いレンジの音の時代になると言われる。だが、僕たち音楽家は、そういうことにあまり興味がない。逆に、音のレンジを狭くしようという意識さえある。人間の声も、SP盤で聴くととてもよい。だが、性能がよければ---つまり周波数帯域が広ければ、人間の声一つ録っても余計な音が入ってきてしまう、いい音というのは、ある限られた周波数で十分なのだ。

カスタネダ、「真実」ならそれでいいw

信憑性を疑う論調も出てきて、うさんくさいイメージがまとわりついてきた。だが、僕はシリーズを読み進めるうちに、書かれているのが「真実」であることを知り、それが「事実」かどうかはどうでもよくなってしまった。おそらく、僕以外の読者も同じ思いだったのではないだろうか。

初めて第一巻を読んだときは、当時のヒッピー的な世界の匂いがぷんぷんした。語り手のカスタネダが薬用植物を摂取したときに味わった恐怖が鮮明に伝わってきて、ドラッグ体験のトラウマで苦しんでいた僕には怖い本としか思えなかった。だが、そんな印象は二巻目を読んでいるうちにがらっと変わった。この読書体験が自分のトラウマを反芻し、治療していくプロセスに感じられたのだ。ドラッグ自体が重要なのではなく、それは入り口にすぎないという話あたりから、僕は水を飲むように本を読み、内容が自分のなかにしみわたっていった。