アンビエント・ドライヴァー/細野晴臣

収録された文章が書かれた時期、95-96、02-06年の二つに分かれるのですが、その断層が気になる(細野晴臣の言動の変遷を知らぬので、単に掲載媒体の違いなのかもしれぬが)。まあオカルトもアンビエントもピンとこない負傷のオケラなので許されよ。
音楽に関してはどちらも自分自身の言葉で語っていて違和感はないし興味深い視点があるのだが。

アンビエント・ドライヴァー THE AMBIENT DRIVER (マーブルブックス)

アンビエント・ドライヴァー THE AMBIENT DRIVER (マーブルブックス)

便宜上、前期、後期と分けるとして。前期は社会から逃れてやすらげる空間にいたいだけなのでそっとしておいて欲しいというトーンなのだが、後期は社会とコミットしていこうという気配でなにやら言葉が空疎になっている。最近子供がキレやすいetcてな社会問題から憲法改正に話をもっていくような風潮があってよろしくないというようなことを書いたりしてるのだが、ソトコト的言動はそのネガみたいなもので、お互い様である(まあそういう輩がいるからソトコトなのですということなのだろうけど)。
前期においては

YMOの頃、高橋幸宏たちと新宿にオールナイト映画を見に行ったときのことだ。映画が終わって出てきたら、出口付近に立つ灰色のスーツにネクタイをしたサラリーマン風の男が見えた。その頼のあたりがもやもやしていたのでぱっと見ると、人間とは違う顔をしていた。皮膚は灰色で月のようなクレーターがあり、目も口もないのっぺらぼう。そして、顔の横から出た管がくねっている。だが、あとで一緒にいた人たちに聞いたら、誰も見ていなかった。
(略)[二年後上野の百貨店で目撃]
このときは一緒に見た友人もいる。見たら相当ショックを受けるはずなのに、みんな平気で同じエレベーターに入っていくのには驚かされた。後日、それをグラフィックデザイナーの奥村靫正に話したところ、「あ、その人知ってる。神田の本屋で会った」と言われたのでまた驚いた。「あの人は仏陀だ」と言う。そばに寄ったら、オーラを感じたそうだ。それはともかく、二度も会うからには何かの縁に違いない。いまは話しかけなかったことを後悔し、また会う機会を待っているところだ。今度会ったらいろいろ訊いてみたいと思っている。

同じ文章内で、円盤を見たといって旦那に殴られた奥さんの話をしているので、この話が一般人にどうとられるかという認識は細野さんにはある、あるが平然としたトーンで語られている。あまりの普通さが妙に笑える(二年後には周りの友人がそういう人になっていたのか、もう見えたと同意するしかない空気になっていたのか)。

誰かと話していて、その人のわからないことをわかりやすく説明しなければならないことがある。そんなとき、これは僕の意見でなく自然界の意見だという気持ちで喋っていると、コーヒーポットがポンといったり、ブラインドが力夕力夕音を立てたりする。必ず何かピンとくる同意があるのだ。そうすると、なんだか楽しくなってくる。
こんなことをいうと、僕の頭がおかしいと思う人もいるかもしれない。ただ、「誰かが私にこうしろと命令する声が聞こえた」というよりは、安定した感覚なのではないだろうか。同意があったと思う根底に精霊信仰があれば、どこか大地に根ざした安心感があるものだ。何かが見えたり、変な声が聞こえたりするのは困るけれど、クッションを通してやわらかくメッセージを受け取るような日々はいい。精霊信仰とは、そのように穏やかでおとなしいものだと僕は思っている。

超自然的なものを認めない社会に対抗して、「お告げ」etcといったものは出したくない、ただほっておいてください、「グラスの底に顔があっても」的感覚w。

十年ほど前、初めての高野山行きを翌日に控えていた日、僕はとても体調が悪かった。そこへある友人が僕を訪ねてきた。近所の店に行って話していたら、突然相手の様子が変わって、僕しか知らないようなことをぺらぺら話し出すではないか。怖くなって家に帰ろうとすると、別れ際に「この世には、あなたがまだ知らないことがたくさんある」と言われ、ますます「これはただごとじゃないぞ」という気持ちが強くなったのだった。あまつさえ、雪までちらついてきた。

うわあ、なんだかこのまま小説の出だしになりそうな文章。「あまつさえ」がイイね。友人と会っても自分の世界に没入の病んでいる人が普通に記述した光景。
これが後期になると

現実をはみ出すような出来事には、誰もが衝撃を感じる。淡々と日々を過ごし、日常にまみれてしまったときには、一種のショック療法のような効果がある。顔のない人との邂逅や、フラッシュしながら空に昇る光りを見たという体験が、僕のなかにはホログラムのように刻まれている。あの体験があるから、今後何かあっても自分は大丈夫、とも思える。リアルだけれども夢のような話というのは、心の支えになるらしい。

前期では「もののけ」のコダマのような精霊に囲まれた生活が普通に語られていたのが、もうすでに対象化されて「心の支え」になるという言葉で語られている。こちらに戻ってきてソトコト言語を駆使する日々(でも、拙者ソトコト読んだことありませんから)。

日本列島はほとんどが山である。ところが、そういう国なのにろくでもないことがたくさん起こっているのが現状だ。どんなに恵まれた環境のなかで生まれ育ったとしても、自然を発見し、学んでいくことをしなければ人間は解き放たれないのではないだろうか。日本は、列島改造論以来、すべての自然を破壊して都会にしようとする傲慢な時代を通過し、自ら傷つくまでやめることはなかった。

なんだ、この手垢にまみれた言葉は。掲載媒体が悪いのか。
という何だか批判めいた話はこれくらいで音楽の話。
打ち込め「おっちゃんのリズム」

ある日、ティンパンアレイ時代に「おっちゃんのリズム」の秘伝を聞きかじっていた坂本龍一がコンピュータでもそれができることに気づいた。コンピュータでは、音の長さを数字で打ち込む。MC4というコンピュータでいえば、ひとつの音が24という長さで、それを8回やると8ビートになる。だが、36と12を4回ずつ交互に繰り返せば、タンッタタンッタというスウィングのビートになる。その中間をとれば、跳ねるような跳ねないようなリズムになるのは当然だ。

モンドというのは

結局のところ実体のないものだから、突きつめないほうが楽しめる。突きつめない精神こそがモンドの基本だとも言える。この世の片隅に放っておかれた音楽=モンドのほとんどは、ジャンルの境界線上の曖昧なところにあったのだ。

アンビエントとは

[その問いに何度も答えているうちに]
答えようとして混乱してしまうことも多い。アンビエントは概念ではないと言っているうちに、「概念ではないこと」が概念になってきてしまうのだから困ったものだ。(略)
モンドが「聴き方」の態度だとすれば、アンビエントは「作り方」の態度ともいえる。そして、僕は聴き方と作り方の間でまだ引き裂かれているようだ。

アートじゃないのよ海のポップス

フローティング(浮遊感)がキーワードだったアンビエントの海に漂うのは、心地よいことだった。傍からはシリアスそうに見えたかもしれないが、気持ちは海に浮かぶラッコのようなもので、アンビエントをやっていた連中で深刻な人は一人もいなかった。(略)
海にいるということは、ある意味で陸(現実)から逃避しているにすぎない。遠くから陸を眺めて、「古くさいな、ばかばかしいな」と思っていた。
それまで現代音楽といえば意識的なアートだったのに対し、アンビエントはポップスなんだと言ったら、わかりにくいだろうか。だが、なんとなく聴くというよりは、「こりゃ、すげえや」「新しいや」などと興奮して聴いていたのだから、やはりこれはポップスなのだ。アンビエントの海ではそういうポップスが手に入ったから、陸の「古くさいポップス」はばかばかしくて聴けなくなってしまったくらいだ。

夜も更けたので明日につづく。
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