笙野頼子vs中島義道

前日のkingfish.hatenablog.comのつづき。
笙野頼子と「騒音おばさん」を関連付けてまとめようかと思ったが、尊師を貶されると前後が見えなくなる脳内カースト[女&かわいい動物ちゃんたち>>(越えられない壁)>オス]なプチフェミちゃんがまともに理解できるのか心配になってきたので、小谷野敦で説明しようかと思ったが、それはそれで別のところに延焼しそうなので、そうだ中島義道がそれはただの病ですと言いたくなるような文章を新潮45に書いてたなと図書館に行ってみたがバックナンバー貸出し中でこれを借りてきた。『うるさい日本の私、それから』の改題文庫版。

ラクしてない負け戦なのだから傷付けてもいいじゃない

[大衆蔑視&啓蒙という傲慢]
私は自分の傲慢を引き受けたのだ。そして、そうした傲慢な私が行動するとき、私は他人をむやみやたらに傷つける。私の怒鳴り声に傷ついた他人は数多くいることであろう。私の差し出す「電気通信大学教授・哲学博士」という肩書がシッカリ印刷してある名刺に、怒りを覚えた人は数限りないであろう。
そのことを、私は知っている。そして、そうした自分にはげしい自己嫌悪を覚える。だが、私はやめない。なぜか。私はラクをして戦っているのではなく、ラクをして人々を傷つけているのではないという「自信」があるからである。たえず、しかもいちばん傷ついているのは自分であるという「自信」があるからである。永遠の負け戦であるという「自信」があるからである。損なことをしているという「自信」があるからである

こうしてビョーキになりました

[犬の鳴き声に対する苦情が相手にされないと]
こういう場合、あなたはまともな精神の健康が保てなくなるはずである。隣の犬が小さくワンと吠えただけで、飛び起きる。あなたのからだは犬の吠え声を聞こう聞こうとしてしまっている。固唾を呑んで犬の鳴き声を聞く。静かなときも、次の瞬間に吠えるのではないかと、心はうち震える。そして、あるときあなたはその隣人Xが両隣のAやBと快活に談話している姿を目にする。そのそばではアノ憎き犬がじゃれまわっている。AもBもホッホッホッ、ハッハッハッと上機嫌で犬を撫でさすっている。あなたは、AやBまで憎むようになる。そして、怒りがきりきりとあなたのからだを蝕み、何も手につかない。あなたは犬を殺そうかとすら考える。……そのうち、いつしかあなたはありとあらゆる犬の吠え声が恐ろしくなり憎くなる。こうして、あなたはしだいしだいにビョーキになってゆくのだ。
音はこうして人を狂気に至らせる。音自体に対する苦痛よりも、むしろ自分の苦痛を誰も理解してくれないという絶望感がその人の人格を破壊してゆく。

誰だ! by電気通信グルーヴ

ある時を境にして、自分のうちでこの憎しみが手に負えないほど燃えあがるのを覚えて、私は危険を感じるようになった。「俺を人間に対する憎しみのかたまりにしたのは誰だ!」と叫びたくなった。私はマイクを取りあげたり、スイッチを切ったりするだけではおさまらなくなった。(略)
こうして、絶対我慢をせずに感情を放出してゆくうちに、自分でもしだいに狂気に近づく危険を覚える。(略)金槌を鞄に忍ばせようとしたこともある。相手の面前でスピーカーをたたき壊してみせるのである。そして、代金を払わず逮捕され、最高裁まで戦おうと思った。が、私はもしかしたらスピーカーではなく相手の頭をガンと殴ってしまうかもしれないと恐ろしくなった。
冗談で言っているのではない。ほんとうに、こうした方向にエスカレートしてゆくと、たぶん私はますます自分を追いつめ、ますます他人を嫌い、ますます生きていることが苦しくなるだろう。たぶん自殺はしないだろうが、他殺もしないだろうが、とっさの場合逆上して傷害事件くらい起こすかもしれない。それは、けっして得策ではないと考えたのである。それくらいの自制心はもっていたのである。こんなことで、犯罪を犯し俺の人生をメチャクチャにしてなるものか、相手の手に乗ってなるものか、と我慢に我慢を重ねたのである。

ドン・キホーテ
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!

自己嫌悪はほとんどない。後悔もまったくない。だが、他人のすることなすことが気にかかってしかたない。つまり、「音」に対するドン・キホーテの戦いは、「音」にとどまらなくなってしまい、今やわが国の文化空間が発するありとあらゆるサインに対して過敏に反応するようになってしまったのである。

対象は「音」から景観破壊看板、おっせかい標示、昼間なのに点いてる無駄な電灯看板etcと拡大

こうして、「音」との闘争を続けていくうちに、戦いの対象は「音」からほかのものに無限に拡大してゆき、自分がほかのさまざまな感受性においても、平均的日本人の感受性からずれていることを自覚するようになった。平均的日本人がいらだたないことに無性にいらだち、平均的日本人がいらだつことにいらだたない。つまり、敵は「日本および日本人」であることがはっきりわかってきた。

大新聞記者、大塚英志からニュー評論家、ロリコン、権力を握っているオス供が憎い憎い、頼子も止まらない。

[人は真剣に私の問題提起に対応しない]
なぜか。切実な痛みがないからである。感じないからである。私の提起している問題は感受性にかかわる。いかに、論理的に合理的な議論の段階で賛成されても、私の痛みまで理解してはくれない。たとえ理解してくれたとしても、彼らは痛くない。痛みを(頭で)理解することと実際に痛いこととはまったく別である。そのことに気づいた。
それから、私は合理的な議論によってわからせようとは思わなくなった。思えば、私はこう諦めたころから、大声で「うるさい!」と怒鳴り、スピーカーを取りあげ、相手を罵倒し、強迫し……等々の過激な行動に出るようになったのである。

こうして頼子は孤軍奮闘、文士の森で「ロリコン引越し」連呼を始めたのである。

からだを張って動きだした仲間のうち少なからぬ者が、身体の不調を訴えている。人間関係に恐怖心を抱いている者もいる。職場をもうじき追われるのではないか、と恐れている者もいる。全国から行動したがゆえに排斥された者が、私にワラをもつかむ思いで便りをくれる。その声は深刻である。

中島義道は教授の肩書きで守られる程度に過激行動する、クレバーであるともいえるし、ズルイという人wもいる。私と違って肩書きのない「すき家ユニオン」みたないな人たちは過激な行動に出る必要はない、苦情窓口等に意思表示するだけでよいと言っている。)

  • 繊細な心はビョーキなのです

中島は教養溢れる繊細な心ががさつな音によって病んでしまったと信じて疑わない。病んだ心だから(普通の人には)ただの騒音が耐えられない騒音に感じるとは考えない。張りつめた哲学者の心は繊細なのです、でもそれは悲しいけど病気なのよね。すると中島はこの哲学する心がビョーキだというならそれで結構と開き直るだろう、哲学博士だからいくらでも自説を主張できるだろう。主張できても狂っては意味がないでしょと言えば、また理屈をこねるだろう。でも問題とする騒音が消えた時に、冷蔵庫のモーター音が時計の音が気になる自分がいるかもしれないと何故考えないのだろう。
つまらない気晴らしで、いつもよりも騒音が軽減していると感じることの方が手っ取り早いんじゃないんだろうか。自由に生きてジャクチョースマイル、ぽじてぃぶしんきんぐセミナースマイル、で言ってるのではないのです。自分に非はないと狂気に至るよりは、とりあえずなのです。
中島義道はストレスを騒音本連発で解消、印税がっぽりで気分爽快とどこかで強がっていたが、ほんとうかね。笙野頼子はどうなのか。怒りを糧に笙野文学金字塔をうちたてて気分爽快なのだろうか。芸があれば騒音ラップも金になる文学になるというならそれでいいけれど、「ドン・キ〜」から「徹底抗戦!〜」への変化を見るとそうは思えないのだが。
なんか結局まとめになってねえ。どうしようかな。

  • オマケ

解説はなんと小谷野敦。2001年にはまだ蜜月だったのか。

私は、1999年の春、五年ぶりに大阪から東京に帰ってきた。(略)
いま妙に細かく時期を書きつけたのは、それから程なく、私はむやみと音に敏感になってしまったので、それが五年ぶりに東京へ戻ってきたことによるのか、あるいは五年間に東京がかなり騒音の町になっていたのか、それとも果たして中島氏の本の啓蒙的効果によるものなのか、よく分からなくなってしまったからである。

それは大阪で心を病んだからだと思います。