イエロー・サブマリン航海記

イエロー・サブマリン航海記

イエロー・サブマリン航海記

UAとの契約を果たすために

あと一本映画をつくる必要があった。

アル・ブロダックスは2年前からABCテレビのアニメシリーズ「ザ・ビートルズ」を制作し、大成功を収めていた。エプスタインからは、テレビシリーズが成功すれば、長編アニメーション映画を作ってもいいという約束を取り付けていた。

子供向けの低レベルなアニメシリーズだったため、映画もその延長だとみなし

メンバーは「イエロー〜」をバカにしていた。

気に入らない曲や出来がよくない曲は、『もういいよ。これは別にしておこう。イエロー・サブマリンにちょうどいい』。そういう態度だった」
「仲間内では、これが録音のときのお決まりのジョークになった」と当時の広報担当のトニー・バーローは言う。「できた曲が、とても次のアルバムに入れられないようなレベルなら、彼らは皮肉たっぷりに褒め上げて、それから『イエロー・サブマリン』入りを宣告するんだ。ひとりが別のメンバーに向かってにやりとしながら『合格かな?』と聞く。『あの映画にはどんな傑作でも不十分なんだ。だから零点だ!』」ビートルズがアニメ映画のコンセプトを初めて聞いたとき、バーローはジョンが例の調子で「リンゴ、クレヨンを持って来いよ。君の仕事ができたぞ」と口走ったのを覚えているという。

やっつけ仕事でノーザン・ソング

契約では映画のために新曲を4曲書く義務があったんだが、ビートルズは気に入らない曲を全部映画に回してきた。それで3曲はできたが、4曲目がどうしてもできない。ユナイテッド・アーティスツからは「4曲目のテープはどこなんだ?」と電話で矢のように催促されていた。でも深夜になってもできない。マーティンが「どうするんだ?」と言ったら、ハリスンが「僕がやってみるよ」と答えた。できたのが「オンリー・ア・ノーザン・ソング」だ。でもタイトルがまだなかった。ふと楽譜を見ると、ノーザンソングズと会社名が印刷されている。こうして「オンリー・ア・ノーザン・ソング」が生まれた。そしてメッセンジャーを空港に走らせて、ニューヨークのユナイテッド・アーティスツの期限に間に合わせたんだ。それにしてもハリスンは早業だったよ」

ところが試写を観たメンバーはそのデキに驚愕。もっと積極的に参加すればよかったと後悔。

マイク・スチュアート 映画に対するビートルズの最大の貢献は、最初のころのことだ。アル・ブロダックスがわれわれの絵を見て頭にきて、切れたんだ。でもビートルズは「素晴しい」と言った。ブロダックスは頭を抱えていたんだが、ビートルズがそう言ったので、行けるかもしれないと思いなおしたんだ。

できるなら本人達の声でやりたかったけど、相手にされてなかったので仕方なく声優を使う。どのメンバーも自分の声以外はいいねといったw。

アラン・ボール 映画の制作中に2回スタジオを訪問しなければならないと契約で定められていたんだ。アル・ブロダックスと一緒に写真に納まり、報道陣に少しは興味があるふりをして見せる。最初はまたマンガか、とでも言いたげだったが、実際に映画を見たら、彼らは完全にまいってしまった。みなで集まったのは最初の試写のときだったが、ジョン・レノンが自分たちで声をやるべきだと言い出した。それを聞いてまずいと思ったよ。そのころにはもう相当進んでいたからね。それからポール・マッカートニーが最初の脚本にはまったくなかった曲を2曲書いた。大助かりだったね。

「ピーター・マックス」は無関係

さて「ピーター・マックス」で検索すると「イエロー〜」原画担当etcという誤った事実が堂々と書かれていたりする問題。

マックス 私は『イエロー・サブマリン』がどんな意味でも私の創作によるものだと言ったことはない。ただ、どう言えばいいか、私があの映画が目指したようなスタイルを作ったとは言えるだろう。(略)ジョン・レノンはあれ[例のTVシリーズ]が大嫌いだった。そこでピーター・マックスの大ファンだったジョン・レノンの希望によって、アル・ブロダックスが私に映画のデザインと美術監督をやってほしいと電話をかけてきた。そのとき彼が提示した報酬は、驚くなかれ約225万ドルだったんだ。(略)
[それが結局20万ドルになって契約不成立]
だから、私は彼に映画の方向性を示したことになる。でもあれは本当に私からビートルズヘの贈り物だったんだ。(略)でも、人は私のスタイルだと思うんだ。ピーター・マックス・スタイルがアメリカを席巻していたからだ。

確かにアル・ブロダックスのいい加減さを考えると、他の人間にピーター・マックス風にやらせて安くあげたというのは、ありえない話ではない。だからといって、「イエローサブマリンの父」と紹介されて否定しないというのもどうなのかと小一時間。
アルは最初ミルトン・グレイザーに話を持って行こうとはしたことはあるが、ピーターには一度もないと主張。まあそれでいくと、ミルトン・グレイザー風に安くすませたということ?

ハインツ・エーデルマン

ハインツ・エーデルマンの特徴的な色と線は、1967年の夏にはすでに国際的に知られていた。彼の作品は洗練されたサイケデリック・アートの先駆をなすものと考えられる。エーデルマンは「『イエロー・サブマリン』を制作していたとき、マックス氏や彼の作品のことはまったく念頭になかった。チームの誰も彼を知らなかったし、話題にもならなかった」と言う。クリス・マイルズは、『イエロー・サブマリン』の背景の絵について次のように指摘している。「少しかすれたような輪郭に、水彩で色をぼかすように入れるんだ。そうするとインクが交じり合って、とてもサイケデリックな効果が出る。こういう非常に細かい、美しい背景を描いたのはアリスン・ドヴィアだ。ピーター・マックスは何の関係もない」
目を酷使したため危うく失明するところだったエーデルマンは、その後の25年間、『イエロー・サブマリン』の思い出を語ろうとしなかった。ミルトン・グレイザーが指摘したように、彼は次のプロジェクト、新たなスタイルヘと移っていった。そのためには『イエロー・サブマリン』の知名度がかえって邪魔になったようだ。エーデルマンは『イエロー・サブマリン』のデザイナーとたてまつられるのを故意に避けた。

彼は『イエロー・サブマリン』について質問されることにうんざりしていたという。「私があの映画を作ったときはまだ34歳だったのに、あれが代表作とされてしまった。その上、何もかもが悪戦苦闘だったんだ。私はやりたくなかった。ビートルズの音楽だって好きじゃなかった。当時はむしろジャズの方が好きだった。心情的には映画に出てくる悪者、ブルーミーニーの側だったんだ。彼らはフラワーパワーなどというたわ言に対する私の感情を完璧に代弁していた。ミーニーに勝たせたかったくらいだ」

師匠によるピーター・マックスの人格検証

若き日のピーター・マックスの師であり、ニューヨークのプッシュピン・スタジオを主催するミルトン・グレイザーは、次のように語っている。「ピーターのために言っておくけど、彼はマーケティングのセンスは抜群だ。プッシュピンにいる間に身につけたアイデアをうまく利用して、素晴しいキャリアを打ち立てたんだから」。グレイザーの代表作のひとつに、髪の毛がサイケデリックにデザインされたボブ・ディランのシルエットがある。皮肉なことにこの作品もまた、『イエロー・サブマリン』の場合と同様の誤解の繰り返しによって、「ピーター・マックスの傑作のひとつ」とされることが多い。(略)
ピーターのスタイルの基礎が形成されたのは、私が見る限り、彼がプッシュピンにいた時期だ。それを考えると、ピーターがわれわれの影響を受けていないなどと突然言い出すのは、まったくばかげている。こんなことは誰にも言ったことがないが、彼が取り上げる主題がプッシュピンの影響を受けていないとは、一種のまやかしだ。とんでもないたわごとだ。私が知る限り、ピーターはうちで働いていたことに一言も触れていない。だが、あの時期が彼のその後の成長に非常に重要だったのは明らかだ。

ブルーミーニー(あの耳はミッキーマウスをおちょくったもの)

エーデルマン (略)私にとってミーニーはある意味で冷戦の象徴だった。最初はレッドミーニーにするつもりだったんだ。

ギャグ一例

アンタル・コヴァーチ (略)「モンスターの海」に、鯨の群れ(a school of whales)が出てくる。その語呂合わせで、鯨の大学が出てくる。ウェールズ大学とかけているんだ。そこのせりふに少し間があったのでギャグを入れた。学校の鐘のような効果音を入れて、ウェールズ訛りの子どもの声が「先生、また来学期ね」って言うんだ(笑い)。私はこのギャグを楽しんだが、映画を見に行った人の何人が気づいただろうね。

ヘイ・ブルドッグ

トニー・バーローは、この曲についてのジョンのコメントを覚えていた。「いい曲だけど、何の意味もない。もう一曲必要だったから、ササッと書いただけだよ」

グローブ

エーデルマンは『イエロー・サブマリン』より前に、顔がありジェットで飛ぶ青い手袋のキャラクターをよく使っていたという。伝説的な『トゥエン』誌に書いていたユーモア・コラムのトレードマークだったのだ。エーデルマンは「こっちを見なさい!ここが大事なところですよ!」と指図する、ヴィクトリア時代風の権威主義の象徴として手袋を使っていた。