女流-林芙美子と有吉佐和子

女流 林芙美子と有吉佐和子

女流 林芙美子と有吉佐和子

大雑把に言うと、サイバラを惚れっぽくしてエゲツナクしたのが林芙美子

〈ボロカス女になり/死ぬまでカフェーだの女中だの女工だのボロカス女になり/私は働き死にしなければならないのか!/病にひがんだ男は/お前は赤い豚だと云います。矢でも鉄砲でも飛んでこい/胸くその悪い男や女の前に/芙美子さんの腸を見せてやりたい〉(『放浪記』)
(略)編集者が原稿を依頼するために妙法寺境内の浅加園の借家へ出向いたとき、芙美子は赤い水着姿で迎えた。彼女は普段自分で模様を描いた着物を着ていた。しばらくそれを着ると、洗い流してまた新しい模様を描くのだが、その一枚しかない着物さえ入質してしまったと言い訳した。ほんとうのことかどうかはわからない。芙美子は、よくいえば体当たりの、ありていにいうと鬼面人を愕かせて印象づけるやりかたを常套としていたからである。

座を暗くする女・平林たい子の痴漢行為。

たい子は林芙美子にならってカフェー勤めをした。しかし、声も客あしらいもよく、源氏名を弓子というので「弓姐さん」と若い女給たちに頼られ、また入れあげた洋品店の若い店員が店から襟巻きや手袋を持ち出して警察沙汰になるような芙美子とは対照的に、たい子は「座を暗くする」女給といわれ、不人気だった。
その頃たい子は身の内に湧き起こる暗い衝動に耐えていた。たとえば彼女は電車のとなりの吊革につかまった若い男に、わざともたれかかるのである。相手の男はちらと、たい子の顔を見る。たい子には暗い魅力があるといえるが、美人ではない。太っている。彼はひとつ吊革を移る。たい子も追う。いく度かそんなことを繰り返したあげく、若い男があいた席に腰をおろすと、彼女は電車の揺れに合わせてわざとよろけ、男の膝に手を突くのである。26年2月に執筆し、27年3月「大阪朝日新聞」の懸賞小説に当選した小説「嘲る」(「喪章を売る」を改題)にそういう記述があるが、たい子の実体験である。

世に出るために、昭和の「青鞜」といえる「女人藝術」のハイソな空気にも耐える。主宰者・長谷川時雨が死んだ時

文名をあげたのちの林芙美子は「女人藝術」時代のことを語ろうとせず、また当時の仲間との接触をつとめて断つふうであった。(略)
追悼の言葉を書いてくれと使いが訪ねると、彼女は二時間も時雨の悪口を並べたあと、奇妙な詩を別室で書いてきた。
〈おつかれでしょう・・・。/あんなに伸びをして、/いまは何処へ飛んでゆかれたのでしょう。/勇ましくたいこを鳴らし笛を吹き、/長谷川さんは何処へゆかれたのでしょうか。/私は生きて巷のなかでかぼちゃを食べています〉(「翠燈歌」)

自費でも行きたい従軍作家。1937年34歳。

吉屋信子さんが行くなら私も。火野葦平が書くほどのことだったら、女の立場から私だって。そう考えだからこその、「是非ゆきたい、自費でもゆきたい」なのである。(略)
「さて、いよいよ先鋒部隊に追いつくのだが」特派員のひとりがいった。「林さん、もしもの事があったらどうします」
林芙美子は答えた。
「その時は殺して行って下さい」
そういったとき、自分の顔の皮膚が一瞬しびれたような気がした。
〈私は、死と云うものを少しも怖れてはいないけれど、戦場でたった一人の女として、ぶざまな死にようはしたくないと思った。つづけて早口に「殺したら、きっと、そこへ放りっぱなしにしないで、クリークでも沼の中でも、ぶちこんで下さい。余裕があったら、私を焼いて行って下さい」一抹の不安の外で、こんなことも云えた〉(『北岸部隊』)

戦場に「林芙美子の書くべきこと」はなかった

『北岸部隊』は率直にいってあまりおもしろくない本である。林芙美子の場合、自分か、自分に似た女が主人公にならないと書けないのである。意気はあがらないのである。(略)
「軍の広報」として選ばれた火野葦平の『土と兵隊』『麦と兵隊』には、相当な自主規制と検閲を経たあとでも、戦争の迫真力があり兵隊の実像がある。それは下士官(伍長)であった火野葦平が、泥の海、麦の海を歩いた体験がもたらした。戦場での日常と平和が、その背後の苛烈な戦争を実感させるという逆説的な構造を持っている。果てしなく歩きつづける兵隊の姿は、中国の奥の深さと、日本軍の戦争終結点のあいまいさをきわだたせ、同時に日本軍の機動力のなさと兵站の貧弱さを雄弁に物語るのである。意識的であれ無意識的であれ、そのような視点は『北岸部隊』にはない。
芙美子のいうごとく、戦場に「女の書くべきこと」はたしかにあったのだろう。しかし「林芙美子の書くべきこと」はなかったのである。彼女にとって戦争は、民族や国家の運命を左右する歴史の沸騰ではなく、ひとりの男、ひとりの女の運命に干渉する事件と認識されたから、読むに値する彼女の戦争の物語は戦後にあらわれるはずであった。
戦争が彼らを傷つけるのではない。敗戦が傷なのである。それは芙美子もおなじである。そして彼女は、傷をえがくことをもっとも得意とし、また好んだのである。

織田作之助死去、

残された内縁の妻・輪島昭子の処遇は。引き取れないと大阪弁でまくしたてる織田の姉妹たち。そこで太宰治が「ぼくたちが引きうけよう」と提案。姉妹等が昭子と本葬のために大阪へ立ったのち、芙美子が激怒。

「ぼくたち」とは誰のことか、もともとせまい家に若い女を引きとることなど家族の手前できないだろう、となれば自分の家しかないではないか、と芙美子はいった。
織田作之肋の三高時代以来の友、青山光二は後年このように書いた。
〈「かならずころがりこんできますよ」自信にみちた口調だった。「あんたたち、女の気持がわからないのよ。寄るべない女の気持が---」
今のいままで目尻をさげて、きれいな呑み口で盃をほしていた林芙美子の、とつぜんひらきなおったように言葉をあらげた、あたり構わぬ見幕に、鼻白んだ編集者の大半は足音をしのばせるようにしてつぎつぎと退散し、残っているのは徳田雅彦と和田芳恵ともう一人だけになっている〉(『純血無頼派の生きた時代』青山光二
太宰治が芙美子の「河沙魚」をしきりに褒めていたのは、自分の放言が呼び起こすだろう芙美子の反応を予測して、あらかじめご機嫌をとり結ぼうとした所業だったのだ、と青山光二は気づいた。太宰治林芙美子も複雑な人格の持主であった。

宮本百合子が大嫌い

アナーキスト詩人」時代と訣別したいという気持はわからないではない。女給時代の記憶と重なり、芸術家風の理不尽な男、ダメな男をなぜか好んだ自分の過去と向き合うことになるからである。が、南京入城時に背中を借りた記者への強い拒絶の意図ははかれない。
芙美子が壺井栄の家で詰しているとき、宮本百合子が訪ねてきた。偶然である。芙美子は、戦前百合子がまだ旧姓の中條であった時分からはげしい感情を持っていた。それはライバル意識というより敵愾心であった。宮本百合子も芙美子をなぜか嫌い、「林さんとつきあうこと自体、あなたの堕落よ」と壺井栄につねづねいっていた。ふたりの間にたちまち火花が散った。芙美子はひとことも口をきかなかった。百合子が鋭い皮肉をひと言ふた言放つと、芙美子はぷいと立ち上がり、そのまま帰ってしまった。壺井栄には、なすところがなかった。

戦前的中産階級&インテリへの強烈な批評

浮雲』のゆき子は、生涯を恋愛放浪に費した芙美子の自己像の反映であり、その徹底度においては芙美子の遠い憧れであったが、ゆき子に対するに「いい気味」というアンビバレントな思いも感じられる。芙美子は、戦争によって変転する「運命」をえがくことに意欲したが、その際、恋愛に殉じたといってしまえば聞こえはよくとも、結局は自分では何も決定せず、恋愛にも「運命」にも受身の態度に終始したゆき子を冷静に眺める視線が、そこにはある。ゆき子に限らない。富岡に対してもおなじである。
恋愛遍歴、職業選択、従軍行と、幼少期の放浪生活以外はすべておのれの意志と責任で行なったと自負する芙美子の、それは戦前的中産階級と戦前的インテリに向けられた強烈な批評であった。そして彼らが、なすすべもなく彷徨するばかりであった「戦後」こそ、芙美子が書くべき時代であった。それもまた、晩年の芙美子の多産の理由のひとつといえるだろう。

遅筆の芙美子、原稿をもぎ取りに来た猛烈編集者

家事手伝いの女性が出て来たので、林氏に会いたいと言うと、女性は、「先生はお亡くなりになりました」と、眼に涙をにじませて言った。
そんなことでだまされるものか、と氏は奥の部屋に入った。林氏は、ふとんの中に身を横たえていて、顔に白い布がかけられている。氏は声をかけ、枕もとに坐って白い布をとり除いた。
「本当に亡くなられていたんですよ。私は思わず合掌しましたがね」

有吉佐和子のパートもやるつもりだったけど、肝心の有吉がなんともアレで引用してもナニなので放棄。ただ逸話としては面白いので読んでツマラナイわけではない、ナンダソレ。
意外な人も登場。二度の中国訪問時の通訳がアノ唐家璇だったり「あのとき通訳した少年があなただったの!」「少年ではなかったですよ」、海軍出身の長身で酒飲み、よく二百円を借りた同期入社の男が田村隆一だったりetc。