息子視点の「生きる」

「生きる」を久々に観て記憶のないシーンに驚愕。ガンと知り、男手ひとつで育てた息子に頼ろうとするも行き違い、孤独な父、以降のシーンがっ。

仕方なく仏壇の前で妻の死の回想、霊柩車、幼い息子。
息子のために兄からの再婚話を断る。
息子が呼ぶので階段を昇りかけると、戸締りよろしくという息子のノンキな声。
階段でガックリうなだれる志村。
戸締りつっかえ棒代わりのバットから息子の子供時代の回想。
息子の野球応援、息子の手術、息子の出征見送り。
それらすべてに「光男、光男」とうわ言のように繰り返す志村のかすれた声が重なる。
堪らず、すがるように二階の息子のところへ行こうとした途端、部屋の明かりが消え、階段にへたりこむ。

ある意味コントみたいな間で展開する、この10分程度のシーンでロックオン、ガンで生き方が変わった男の話じゃなくて、父と子の話としてしか見れなくなる。暗闇で独りへたりこんでいた父の姿がありありと見える。その反対側にいたのが自分だという事実を感じる。そんな気持をループさせているうちに、いきなり葬式である。

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そしてこの葬式の場面が葬式のヘンテコさを浮き彫りにしていく。
当然息子はほとんど映らない、だって脇役だから、そういう映画だから、役所の人間がああでもないこうでもないと議論しながら美談に辿りつくのを聞いているだけである。ヘンなのである。他の親族は他の部屋で控えているのか、戦争で親戚全滅なのか、単に話の展開上か、息子夫婦&伯父夫婦以外は全部役所の人間。父の手柄を横取りした助役以下、死んだ父を悼む気のない人間の前でひたすら頭を下げているのが一座の中で一番愕然としている息子である。いやそういうシステムだから気が紛れていいのだという面もある、あるのだけれどなんだか下らねえ、そんな話はどうでもいいんだ、死んだのは俺の父親なんだというのが息子の気持なのだ。

他人は渡辺さんは自分の死期を悟って公園建設に邁進したのだという美しい結論に興奮できる。美談だと盛り上がれる。それは多くの人間で共有できる話題だ。たとえ人々が日常に戻ってその感動を忘れてしまっても共有できる記憶だ。
だが、葬式の脇でひとりうなだれている息子にはそんな美談は意味がない。父と子の関係において問題となるのは冒頭で父が回想した光景である。そしてそれを共有できる片方の人間は死んでいる。もう一方は残されている。美談は父の最期の心の支えが公園であったと伝える。それは父と子の記憶の否定である。父は子に貯金通帳を残して、自分の造った公園に行って死ぬ。公園に落ちていたと巡査が持ってきた泥のついた父の帽子を抱いて息子はその事実に泣くのである。

52年公開の映画だが、黒澤明の父が死んだのが48年。