シェイクスピアの驚異の成功物語

少年時代に遭遇した女王の地方訪問時の祝祭

見世物は手が込んでいて目の離せないものだったが、レスター伯の目は、群衆が目を向けるひとりの人物に熱く注がれていたに違いない。美男ばかり厳選した護衛の担ぐ籠に乗り、豪勢な服を着た宮廷人に付き添われ、あの有名な凝った服を着た女王を、ストラットフォード出身の目を丸くした少年が見たとしたら、それこそ当代一の演劇的演し物を観たことになっただろう。かつて女王が自分自身のことを率直に述べたように---「我々王族は、世界じゅうが見つめる舞台の上にいるのです」。
シェイクスピアは、生涯を通して、王族のカリスマ的な力に魅了され続けた。群衆のなかに芽生える興奮、本来屈強なはずの男たちの震え、偉大なる者への畏怖の感覚

のちに『夏の夜の夢』に使われる光景

レスター伯が女王のために上演したかなり豪奢な余興の一つに、24フィート(約7m強)の機械仕掛けのイルカが、城に隣接する湖から浮上するものがあった。イルカの腹部には吹奏楽隊が隠れており、背にはギリシア神話に出てくる楽士アリオンがまたがり、ランガムの表現に従えば「愉快な歌」を女王のために歌った。

シェイクスピアが『夏の夜の夢』で明確に表現しているのは、レスター伯の余興が大金をかけて実現しようとした優れて文化的なファンタジーだ。見えない恋の矢で貫かれ、あちこちに浸透する強烈なエロティックなエネルギー。それに圧倒されないのは、ただひとり、「西に王冠を戴く美しい処女王」のみ、という魔法のような美しい世界の幻想なのである。現実はこの夢に近寄ることもできない。花火は、所詮、天空から降り注ぐ星々ではないし、海などなく、城の湖のそばに群がる御しがたい群衆がいるばかりであり、美しい処女王は歯が腐りかけた中年女性であり、機械仕掛けのイルカは高価な浮きと大差なかったであろうし、イルカの背に乗る人物はアリオンでも人魚でもなく、ハリー・ゴールディンガムという名の歌手だった。

階級を買おうとした父、その前に商売が左前で断念

「大学で勉強する」というのは、小地主で手袋商のジョン・シェイクスピアには思いもよらないだけでなく、長男にさせてやれなかったことが明白なことでもある。しかし、万策尽きたわけではない。エリート階級に上がりたいなら、とにかくまず紳士のような生活をしなければならない---つまり、「便々と暮らし」、ある程度派手な出費をし続けるのだ。次に、はしごを隠す---つまり、最初からそこにいたかのような振りをする。紋章院という機関は、過去をでっちあげて、階級が変わったことを隠すという奇妙な商売をしており、そこから紋章を獲得すればよいとスミスは記している。金と引き換えに、紋章院は、本当は捏造したものを古い登録簿に発見したふりをしてくれるのである。

浮浪者地獄

エリザベス朝イングランドにおいて、家族や社会と訣別した人間は、たいてい苦境に立たされていた。この社会は、浮浪者を深く疑う体質だったのだ(略)
遍歴の騎士や彷徨える吟遊詩人の時代は終わっていた---存在したとしても、お話としてのみだった。遊歴の僧侶や巡礼は確かに昔いたし、人々に記憶されていたが、国家が宗教体制を解体したため、巡礼地は熱狂的な改革者たちによって閉鎖され、破壊されていた。(略)
歌ったり、踊ったり、ジャグリングをしたり、台詞を朗誦できたりしても、何の口実にもならなかった。以前の法令に続いて制定された1604年の浮浪者取締り令で流浪者と分類された職種には、インタルードの役者、剣術士、熊使い、吟遊詩人、乞食学者、船乗り、手相見、占い師などがあった。流浪者が自分の土地を持っているとか、仕えている主人がいるとかを証明できないときは、柱に縛りつけられ、公然と鞭打たれた。それから、生誕地へ送り返され---家業に戻るか---さもなければ、だれかが雇ってくれるまで強制労働をさせられるか、足枷にかけられた。
働かなくてもよい特権化された生活をしていた一握りの人もいたが、一般人が暮らす社会は、シェイクスピアの表現を借りれば、「つらい労働に肉体を投じない」人など許せないほど食糧難だった。そしてその労働の実りは、少なくとも理屈では、身の程をわきまえてまじめにしている人たちが手に入れることになっていた。社会規制は驚くほど厳しかった。足枷や鞭打ち程度では手ぬるいとでもいうかのように、16世紀半ばの法令は、浮浪者に恪印を押し、奴隷として強制労働させるように命じていた。

どっちつかずの宗教模様

1533年にヘンリー八世が---離婚をしたいのと、修道院の莫大な富を自分のものにしたいために---自らを「英国国教会の首長」と宣言したときに、ストラットフォードは王国全体がそうであるように、名義上プロテスタントとなった。イングランドは、公式にローマと訣別したのだ。しかし、信仰問題においては、16世紀初期のイングランドの家族は分裂しているのが当たり前であり、家族のみならず多くの個人も内面的に分裂していた。親族一同のうち少なくともだれかが古いカトリック信仰を守っているのはよくあることであり、プロテスタントに改宗しても少なくとも心のどこかにカトリックとしての呵責をときどき感じないような人はまれであって、一般のカトリック教徒であってもヘンリー八世がローマ法王の権威を拒絶したときに国民としての誇りと忠誠心を感じない人は珍しかった。このような心の揺らぎは、ヘンリーの息子エドワード四世の時代になっても変わらなかった。イングランドの支配階級がはっきりとプロテスタントの教義と慣習の受容に本腰を入れた時代であったにもかかわらず、である。

英語発展の瞬間

1520年に、印刷所の援助を得て、プロテスタント信者は、宗教改革の根本思想に従って英語版を作成して広く入手可能にすることにし、一般大衆に読む力をつけさせて、プロテスタントが「平明なありのままの真実」と呼ぶものをわかってもらおうとした。礼拝儀式規則集も英語に直し、英国国教会祈祷書を広め、すべての信者が礼拝を理解し、母国語で声を合わせて祈れるようにした。
これは英語の発展にとって重要な瞬間であった。魂の運命がよりどころとする奥深い事柄が、普通のなじみある日常の言葉で表現されたのだ。

メアリ女王時代にカトリック復活、

プロテスタント指導者処刑、そしてエリザベス女王登場で、再びプロテスタント復活

当初、抑圧は比較的緩やかであった。エリザベス女王は、信仰の純粋さよりも従順と国教遵奉を求めることを明示していた。フランシス・ベーコンは、女王は「人の心や秘密の考えに窓を作る」ことをしなかったと述べている。(略)
その時は、ウィリアム・シェイクスピアが6歳のときにやってきた。1570年5月、裕福なカトリック教徒ジョン・フェルトンが、エリザベス女王を破門する法王の大勅書をロンドン司教の家の扉に打ちつけたのだ。法王ピウス五世は、すべてのカトリックの臣民に「女王に従わず、女王の訓戒や命令や法律に従わない」ように命じ、さもなければ女王同様に破門するとした。フェルトンは拷問にかけられ、謀叛人として起訴され、処刑された。イングランドカトリック教徒は、きわめて厳しい疑いの目を向けられた。(略)
この大勅書のおかけで、陰謀と迫害、策謀とその裏をかく策謀が、エリザベスの長い治世のあいだ悪夢のように続くことになる。

拷問器具「ス力ベンジャーの娘」

シェイクスピアの故郷でもカトリックにつながる教師を雇っていた。その弟であるトマス・コタムはカトリック伝道活動のため帰国したところで逮捕。

コタムから極秘事項を聞き出そうと、ロンドン塔の役人たちは、最も恐ろしい道具である「ス力ベンジャーの娘」を用いた。この拷問器具は、囚人の背骨をほぼ二つに折り曲げてゆっくりと締めつける鉄の輪である。(略)
コタムは、国家の激怒を示すために考案された身の毛のよだつ方法で処刑された。群衆の野次を受けながら、引きまわし板に乗せてタイバーンまで泥道を引きまわされたのちに、首を絞められ、生きているうちに降ろされ、去勢され、それから腹を切り裂いて、内臓を引き出し、死にかけたコタム本人の目の前で燃やしてみせたのだ。そのうえで首を斬られ、八つ裂きにされ、その部分部分が見せしめとしてさらされた。

法王の女王抹殺宣言。理想主義の司祭はテロリスト。

プロテスタントの視点から言えば、せいぜい頭のいかれた阿呆の貧乏人であり、おそらくは外国勢力に加担する危険な狂信者、陰謀者だ。つまり、ローマの邪悪な主人に操られ、イングランドを法王側の権力に戻すためには何でもしようとする謀叛人なのだ。
プロテスタントの恐怖は、根拠のないものではない。ローマ・カトリック教会イングランドカトリック教徒に叛乱を起こさせようとしたのであり、その意味合いは、法王グレゴリー13世が「イングランドの異教の女王を暗殺することは道徳的罪にならない」と公表した1580年に明らかになった。この声明は、明白な殺人教唆であった。まさにこの時期に、司教トマス・コタムが、カトリックのしるしの入った小包を抱えて、ストラットフォード近郊を旅しているところを逮捕されたのだ。その兄の学校教師の任期が短縮されたのも無理はない。ジョン・シェイクスピアとその仲間の参事会員たちは---特にカトリックの近親者を特つ者は---ぞっとしたに違いない。すぐにも自分たちに調査の手が伸びるかもしれなかったからだ。

明日につづく。