花影

ここのところ日本映画専門チャンネル川島雄三をやっている。気分が暗かったせいか若い時にピンとこなかった地味な「花影」が妙にしみじみくる。原作はモデル小説、池内淳子(著名文士と浮名を流した女給・坂本睦子)、佐野周二青山二郎)、池部良大岡昇平)。構図とかもなにげないのにきまっている(ex.高島忠夫が池内を車で送って来たシーン、構図といい青い色調といい)。逆に「しとやかな獣」とかがやりすぎに感じられてきて。無い袖は振れない人生状況になってみると死ぬというがわりとすんなりくる。

花影 (講談社文芸文庫)

花影 (講談社文芸文庫)

「なぜ仕事をしなくちゃいけないの。仕事だけで認められるなんて、つまらないわ。何もしないで尊敬されれば、なお立派じゃないの。高島先生は生きてるだけで、いいのよ」

「あら、先生がどうして死ななきゃならないの。いい骨董をひとに教えてやるのはいいことだわ」
「教えてなんになるんだい。ひとは教えた通りしはしない」

葉子はいつも、自分が自分にふさわしくない生活をしていると思っていたが、高島は一層彼にふさわしくない生活をしている、と思っていた。人の悪口をほとんど一人で、引き受けた形になっているが、昔若くて金があったころは、彼をほめない人はなかったのである。葉子は骨董とか美術については、何も知らない。葉子にわかるのは、高島はたしかに金が要るということである。金がすべてをきめるものならば、なぜ人は高島に金をやろうとしないのだろう、というのが、いつも男から金をもらいつけている葉子の考えなのである。そして葉子は男になにも要求したことはないつもりであった。

お米は金ができると同時に、人間もできたという程度の女と、彼女には映った

美人に金はついてくるが、教養に金はついてこない。
もし教養に金がついてくると思えていたなら、それはお前がボンボンだったからだ。
なぜ持つべき人間には金がなく、下品な人間が金を持っているのか。
それはどうにかなってる人間が言うことであって、生活しなければならない人間は地道に稼ぐのである。
元ボンボンの美術鑑定家と美人のそんな人生は破綻しかけていてそれでも金はついてくるべきだと思っていて、地道に働くようになってしまった元ボンボン?の大岡昇平は腹を立てている。

  • 余談

解説が小谷野敦。[松崎というは大岡のこと]

最後に松崎は葉子と再会し、肌を合わせるが、その前に一緒にタクシーで九段の桜を見ながら、葉子は「とうとう吉野へは、もう一度連れてってくれなかったわね。うそつき」と言う。だが、最初の版では「もう一度」がなく、1982年の岩波書店大岡昇平集』に大岡が書き込んだのを没後の筑摩書房の全集(1995年)で初めて活字にしたものだ。だからこの全集以外は「もう一度」がない。松崎と葉子は、一度だけだが、吉野の桜を見に行っているのを、大岡は忘れていたようだ。

そうだろうか、薄情な(仮定)大岡が現実において愛人に死なれて初めて吉野の桜の事を思い出したということは(もしかしたら)あったかもしれないが、小説家大岡昇平が「花影」において忘れていたという事はないと思う。この小説は一年に亘り月間連載されたもので、吉野行きの記述は第二章にある。

「吉野へ行ったってことは、行かなかったよりいいわ」
と、葉子はいったことがある。自分を忘れることはあっても、吉野は忘れないであろう。
二人で吉野に籠ることはできなかったし、桜の下で死ぬ風流を、持ち合せていなかった。花の下に立って見上げると、空の青が透いて見えるような薄い脆い花弁である。
日は高く、風は暖かく、地上に花の影が重なって、揺れていた。
もし葉子が徒花なら、花そのものでないまでも、花影を踏めば満足だと、松崎はその空虚な坂道をながめながら考えた。

これはどう考えても小説全体の底辺に流れるイメージであり、このネタフリにうまくオチをつけて号泣したいのが作者の狙いなのだから、いくらここから一年経っていたとしても、吉野へ行ったのを忘れて「とうとう吉野へは、連れてってくれなかったわね。うそつき」と書いたわけがない。二人の間では以前の吉野行きは当然の前提なのだから普通の人間の会話ではわざわざ「もう一度」なんてつけないはずだ。これを映画にして台詞に「もう一度」が入っていたら役者から不自然だとクレームがつくと思う。「とうとう」と「もう一度」は重複するのだ。「もう一度」を使うなら、「もう一度、連れていくっていったくせに」とかになる。多分読者から「大岡先生、吉野行き忘れてましたね」なんて指摘が来て、大岡にしたら「バカヤロウ、一番のキモを忘れるかっ」とムカッときたと思うのだけれど、確かに字面上はそういう指摘は成立する。二人以外の人間には確かに「もう一度」が必要だ。
多分問題の台詞は坂本睦子の言葉をそのまま使ったのじゃなかろうか。大岡の心を衝いた言葉だったのだ。そして慟哭している大岡は「もう一度」がなくてもよいのは二人しかいないことに気付けない。