資本主義に徳はあるか・その2

 

前日のつづき。

資本主義に徳はあるか

資本主義に徳はあるか

 

1.経済-技術-科学の秩序
2.法-政治の秩序
3.道徳の秩序
4.倫理あるいは愛の秩序
臓器移植が可能ならやる、金になるなら売買もされる、それを自制することは秩序1には不可能なので、法と国家(秩序2)で制限する。これにも制限が必要になる。合法的な卑劣漢がいるから。そして人民も暴走するから。

学生たちが結論として言うには、すくなくとも民主主義においては、人民は---主権者であるわけですから---事実上あらゆる権利をもつのであり、それはまさにそうであるべきだというのです。(略)
私は笞案を返却しながら言いました。「よし、わかった、人民はあらゆる権利をもっている。してみると人民は、少数派を弾圧する、たとえば反ユダヤ主義の法律に賛成票を投じる権利ももち、合法的な暗殺を実行する、たとえば強制収容所を開設する権利ももち、侵略戦争をおこなう権利だってもっているわけだ。そうなると、なんで君たちは、1933年にほぼ民主主義的な手つづきにのっとってドイツ帝国の首相に任命されたヒトラーを非難できるんだい?」

そんな非人道的行為は憲法で禁止されてますという学生に、その憲法自体が民主主義的手続きで変更可能なのだよと説教して、だから道徳(秩序3)で制限しなければならない。しかし

道徳には制限される必要はないとしても(過度に道徳的であることなどできないのですから)、補完される必要はあります---なにしろ、道徳はそれ自体が不十分なのですから。いつでも義務ははたしているが、義務しかはたさない人間を思い浮かべてみてください。彼が卑劣漢でないことはあきらかですが(略)パリサイ人[独善家]と呼ばれる人種ではないでしょうか。「独善家」とは、道徳的な法の字義はつねに尊重するものの、しばしばなにかが欠けている

それが愛(秩序4)。はにゃー。さらに宗教(秩序5)みたいな。

  • 寛大さか連帯か

両者のちがいは、寛大さのばあいには、私たちがなにも共有するところのない相手であっても、その他者の利害を考慮にいれるという点です。この他者のためによいことをしたとしても、自分たちにはなんの得もないのです。(略)
連帯はこれとはちがって、このばあいに他者の利害を考慮にいれるのは、その利害が共有されているからです。他者のためによいことをするときは、同時に自分にとってもよいことをしているのです。

そんな連帯があるか、あるのです。

私の車が駐車場でぶつけられてスクラップにするしかなくなってしまったとします。そんなときになにが起きるか、わかりますか。数万という善意の人びとが、新車を買うためのカンパをしてくれるのです。なんと彼らは、相場よりも千ユーロ高い金額を与えてさえくれます!なんという寛大さでしょう!
もちろん、こんなことはありません。このばあいには、いささかの寛大さの余地もないのです。たんに、私が彼らと同じ保険会社に掛け金をはらっているというだけのことです。しかるに、私の知るかぎりだれも、寛大さから保険をかけるひとはいません。私たちはみな自分の利害からそうしているのです。

そんなわけで著者は寛大さより、連帯の方が素晴らしいと。

社会保障も保険も税制も組合も、正義のために、そしてとりわけもっとも弱き人びとを保護するためには、私たちがまれに発揮しうるほんのわずかな寛大さなどよりもはるかにすばらしい成果を挙げています!組合にもとづく連帯、税制にもとづく連帯、保険にもとづく連帯、共済組合にもとづく連帯……。これこそ、真の正義(社会的正義という意昧での)であり、というよりはむしろ正義に近づくための唯一の手だてです。

  • Q&A

 -ナイキが第三世界の子供を低賃金労働させると非難され株価が下がるのは、道徳が経済に影響してる証拠ではないですか
子供を働かせることが道徳的に受け入れられるかは(秩序3)での問題。
(秩序1)において経営者が判断材料にするのは消費者の意識であって道徳ではない。仮に経営者が、学校にも行けずにたむろしている子供が工場で賃金を得る方がましだと思っていても、市場の支持がないかぎり彼はそれを中止する。消費者の認識が間違っていようが、経営者は消費者の動向に従う。

経済的な観点から見たばあいのスーパーマーケットの問題は、「フェア・トレード」のラベルのついたコーヒーを選択することが道徳にかなう行動であるか否かにはあるのではなく、商業的に見てそのラベルが、それによって正当化される(第三の秩序における)課徴費用分を埋めあわせるくらいに実効的か否か(第一の秩序において)という点にあります。

愛は道徳ではないのですか

 -あなたが道徳と倫理のあいだに設けられるちがいがよくわかりません。愛は道徳ではないのですか。

道徳ではありません。愛は命じられるものではありませんから。(略)
もはや自分を愛していない恋人に向かって、「私を愛すべきだ」と語ることにどんな意味があるでしょうか。愛は命じられません。しかるに、道徳とは、私たちがおのれ自身に課す、あるいは普遍的に諜されるし、そうあるべきだとみなされる無条件的な命令(カントの用語を借りるなら、「定言命法」)の総体です。ですから、愛は道徳の彼岸に位置するわけです。(略)
私たちが道徳を必要とするのは、ひとえに愛が欠けているからです。だからこそ、これほどにも私たちには道徳が必要なのです---愛はほとんどのばあい、足りていないのですから。
道徳は私たちになにを語るのでしょうか。愛せよということではなく(愛は命じられないのですから)、愛しているかのようにふるまえということです(略)
道徳とは愛の見せかけなのです。本当に隣人たちを愛するのが理想であることは言うまでもありません。ですがそれは私たちにとってあまりに高い要求というものです。私たちはごくわずかしか、ひどく下手にしか愛することができません。ですから、愛しているかのようにふるまうしかないのです……。それがまさに道徳なのです。

客観的諸関係のためには法が、主観的諸関係のためには礼儀が発明されたのです。寛大になれないときには、すくなくとも他者の所有物は尊重しなさい。他者を尊敬できないときには、すくなくともそうしているふりをしなさい。ひとにぶつかったら「失礼」と言いなさい、欲しいときには「すみませんが」と言いなさい、もらったときには「ありがとう」と言いなさい。これは、私たちに欠けている尊敬と感謝の模倣であり、道徳が不在のときの道徳の模倣なのです。

「だがそうなると、いつまでふりをつづければいいんですか」

それには二つの状況がありますが、たぶんその二つしかないでしょう。ひとつはほんとうに愛からふるまうようになるときで、それこそは私が倫理と呼ぶものです。もうひとつがふりをするのをやめてしまうときで、それは私が野蛮と呼ぶものです。(略)
だれもが法と礼儀を尊重するなら、社会はうまく機能するだろうが、だからといってわれわれが地獄に堕ちなくなるわけではない、とパスカルなら言うでしょう。つまり、そうなったとしても私たちが救われないことに変わりはないのです。私たちを救うのは、法でも礼儀でも、ましてや道徳でもありません。愛なのです。(略)
[しかし]
(略)
それができるひとはなによりですが、そんな人びとはごくわずかでしょう。それ以外の人びとにとっては、道徳法しかないのです。道徳にかなった者になれない人びと(ほとんどのばあい私たち全員がそうでしょう)にとっては、国家の法(法律)しかありません。価値の点では、法よりも道徳のほうが、道徳よりも倫理のほうがうえです。ですが、道徳のほうが愛以上に必要なものである、法のほうが道徳よりも現実的なものなのです。

と、多分ネット厨房には説教臭いカンジの話になったわけです。ただ呉智英さんだって「論語」でその人間が有能ならその人柄は関係ないということで現在の世界は発展しているしそれでいいのだけど、でもでも、「仁」というものへの希望は・・とひっそり書いている。しつこくは書かない。盛り上がる話じゃないから。呉さんは受けない話は書かない(迎合ってことじゃなく刺激的という意味で)人なので、「差別のある明るい社会」とか受ける話は書くけど、「仁」なんて盛り上がらない話はあまり書かない。で、呉に影響を受けたエリートちゃんたちはバカ供めと罵倒できるとこしか食いつかなくて「仁」なんかほったらかし。一方この本の著者は、左翼敗退で経済から道徳を排除して「愛」を語ろうとして、やっぱりあまり盛り上がる話にはならなかったのだけど、うーむ。
書いてる俺が支離滅裂でスマソでサヨウナラ。