軽免許と「軽」軽自動車

前日のつづき?確認のために読み返してみた関川夏央旧著より。貧弱脳味噌メモリーのおかげで初めて読むような気分、ダメだ、オレ。

女性恐怖で未婚

その動機は束縛に対する恐怖、だと思う。義務からの逃亡、あるいはたんに責任回避といわれて返す言葉はない。
おとなにはなったが家長にはなれなかった、という言葉には思い当たるところがある。わたしも、そしてわたしの友人のいくたりも、なにかがあきらかに欠落して、いまだ中年の成熟を示すことができない。少年がそのまま老いているようだ、というのは決して牧歌的な状況ではない。むしろ無残である。
多少の弁明を試みるならば、束縛からの逃亡、あるいは責任回避へと動きがちな心理の深層には女性に対するおびえがある。彼女たちにはとても太刀打ちできない、心安んじてともに暮らせないと無意識のうちに見とおしている。半分は男のわがままに違いないが、残りの半分はどうもいまの世の中の課題であるようだ。

わたしは女性を軽んじてはいない。一段下に見ているのでもない。むしろ内心は女性の知恵に知識をもって対抗してさわやかに敗北したいのである。「隔てのない中*1に礼儀があって」、かつ妻がいなくては決してたちゆかない家庭に憧れているのである。しかし知識には知識をもって、放埓には放埓をもって張りあおうとする現代の女性に対しては勝利も敗北もない、ただ戦いを避けて通りたいだけである。

露悪正直告白、やたらといばりちらす泡泡先生

岩野泡鳴にとって、女性の「征服」は自我拡大の手段だった。折から女権拡張時代の空気を吸う当時のマスコミ知識人たちは、それを旧弊であると断じた。
泡嗚は反論した。
〈優強者たる男子として婦人を吸収征服すべきことが、何で直ちに「旧い」か? 「日本の旧い男達」に、僕のような理解があって而も強烈な主義を実行する者があろうか? そして僕は初めから一般的凡俗的な「個人主義の自殺」若しくは滅亡をさせることに努力して来た。そして又その努力は僕の自我独尊的個人主義を確立した。この主義をたとえ「極端な専制主義」だとしても、特殊な具体的理解を失わないが特色だ。自覚ありと称する婦人にしてこの特色所有者に服従しようとしないのは、僕の「ジレンマ」では無く、向うの個性的自覚がまだ低いのだ。凡俗の個人主義に捉われている為に、最も高潔な、貴族的、自我的な個人主義を攫めないからだ〉
なんだかよくわけのわからない文章である。要するに自分は偉い、偉いひとに服従しないのは相手が悪い、妻が悪いといっている。
泡鳴は、小説ではひとつひとつの文章は明快なのに、全体ではなにをいいたいのかわかりにくい書きかたをした。女をもてあそんだ、女がひっついた、女が重荷になった、女を捨てた、とひたすら露悪的な、すなわち病的に正直な告白が連ねてある。そして、そういう自分を責める資格のあるものは責めろ、と居直るのである。一方、こういうたぐいの文章になると、全体では結局自己正当化の強弁だなと察しがついても、部分部分が意味不明である。しかし両方に共通しているのは、やたら威張りちらすところと、文章からおのずとにじみだす陽性な騒がしさの印象である。
生涯を女性問題で悩みつづけた岩野泡鳴は、実はまったく美男ではなかった。顔は荒木経惟によく似ていて、そのうえ額が異常にとびだしていた。その脳は桂太郎につぐ大きさだといわれ、死後帝大病院に保存された。
声が異常に大きく、性欲が強かった。

斉藤緑雨『小説八宗』文体模写で批評

緑雨はこの短文中で新小説の流派を六つに分け[坪内逍遥二葉亭四迷饗庭篁村、山田美妙、尾崎紅葉、森田思軒]、それぞれに文体の模写を行なって寸鉄のごとき言葉を配している。(略)
逍遥は「古い癖は直したが、更に新しい癖をつけた」ものと書かれた。二葉亭は「台がロシアゆえ緻密緻密と滅法緻密がるをよしとする」、たとえば「煙管を持った煙草を丸めた雁首へ入れた火をつけた吸った煙を吹いた」のたぐいと模写され、「ただ緻密の算段に全力を尽すべし。算段は二葉より芳しと評判されること請合なり」と評された。
言文一致体の先駆者であり、「です、ます」調を多用した山田美妙の文体は、つぎのように模写されている。「酒は猪口に注げば、猪口の形です。酒を桝に注げば、桝の形です。実に酒は方円の器にしたがいます。水もまたその通りです。が水は酔いません。けれども酒も水も流動体です」
緑雨の名はこの稿で世の文筆人読書人に知れわたり、同時に恐れられた。

AT限定フィールドの皆さんへ。軽免許を知ってますか。

父が自動車を運転しはじめたのは十年ほど前のことである。免許をあらたにとったというのではなかった。実は昭和三十年代のなかばにはすでに免許を持っていたのだから、かなり早い方である。ただ以後二十年近く車を運転したことがなかった。

友人につきあって父は必要もないのに免許を取ることに。飲めないのに他人の酒につきあう、ことわりきれない性格なのである。

父はとにかくそのようにして自動車学校へ通いはじめ、間もなく免許を手にした。
初夏の夕方に免許証を持って帰り、わたしに見せてくれた。いやいや通いはじめたにしては得意そうだった。免許証には「軽免許」とゴム印があった。
母と相談した結果「軽免許」で十分ということになったのである。費用の点でもここらまでが限度いっぱいだし、どうせ車を買う予定などはないからという理由である。

免許証は未使用のまま二十年たち、時は昭和五十年代なかば。鉄道・バスが衰退。

真冬、雪のバス停でなかなかこないバスを待って神経痛が出た父は、ついに車を買おうと決心した。もはや時流にさからい切れない。それはやむにやまれぬ悲壮な決意だろう。ところが手元にあるのは軽免許である。十年前でさえ、もうとうに360ccクラスの車は生産中止で、軽自動車とは550cc以下の車を示す用語になっていた。当然550ccしか生産されていず、しかるにそれには乗れないのである。父の必死の依頼を受けた弟が中古車のディーラーを駆けめぐり、ようよう渋茶色のホンダライフを探してきた。往時の名車には違いないが、いかんせんすでに十年の車齢である。
父は弟に運転をあらたに教えてもらい、乗りはじめた。車で自由を得て、かつての父の友人のようにさまざまな場所を駆けめぐるかと思いきや、職場と自宅の往復以外には決して使わなかった。理由を問うと、面倒だ、趣味じゃない、ガソリンが減る、車が痛む、と答えた。
弟は笑った。そしてわたしにこっそり、おやじはおなじ道でしか走れないんだぜ、といった。こわいんだよ、まるでレールでも敷いてあるようにコースをかえない、へたするとタイヤ跡だって重なっているんじゃないかな。

講習を受ければ普通免許を取得できるのだが、頑なに軽自動車で十年。ついに修理業者が交換するタイヤがないと泣きを入れてきた。

父はついに重い腰をあげた。ほぼ三十年ぶりの教習所へいやいや出掛けた。苦労の末に普通免許に晴れて書き換え、軽自動車の中古ではなくいっそ思い切って新車を買った。やはりホンダ製でトゥデイという名前の車だった。すごい、これが軽か、と父はいった。昭和四十三年型のライフにしか乗ったことがなければトゥデイは夢の車だろう。日本の自動車工業は父の理解をはるかに超えた速度で進んでいたのである。その驚きぶりはあたかも三十年ぶりに帰国した移民一世を思わせた。

「すごい、これが軽か」ってとこが、すごい。


癇症の妻から逃れるための書斎を夢みる父。

[最終に乗り損ね]
駅長が同情して、貨物列車の乗務員室に便乗しても構わないといってくれた。
乗務員車輛、英語ではカブースである。黄色い室内灯がともり、だるまストーブがあかあかと燃えている。隅に古びた木製の机と椅子が、両側の窓辺に寄せて黒光りするベンチが、それぞれつくりつけてある。
あれはいい、と父はいった。静かで暖かい。石炭のごうごうと燃える音を聞きながら揺れるのも気持がいいものだ。暗いから窓の外は見えない。自分の顔しか映らない。ガラスの向こうに斜めに雨が降る。雪が降るのもいいだろう。書きものをしながら旅行ができるし、誰にも邪魔されない。疲れたらベンチにごろ寝して軍隊毛布をかぶる。眼がさめると、そこは山だったり海だったりする。朝の野原のことだってある。理想的な書斎だなあ、あれは。
鉄道びいきだったわたしには、その意はたちまち通じた。

母の死後、60を過ぎてようやく念願の書斎をつくった父。

北向きではないのに外光量がとぼしい。わざと窓を小さく切り、曇りガラスを入れてある。それは近代文学者の書斎のどれにも似ていなかった。ただ、大きさも雰囲気もなにかを思わせる。足りていないのは石炭ストーブの湿った温気と炭塵の汚れだけで、それはたしかに書物に鎧われた車掌車であった。母を失って、彼は移動する書斎に逃げこむ動機を失ったのだが、昔日の憧憬は精神の基層に生き残っていたのである。それは彼のみならず、生活者たる男たちに共通する憧れであり、憧れの残骸であると俯に落ちるものがあった。わたしも老いればこんな書斎にとじこもるのだろう。移動することにより多く、より長く執着しつづけるかどうかはべつにしても。

母の死に様。

ある病院でたまたま疑いを持たれ即刻脳腫瘍を切除した。のちの経過は良好に見えたが、ある日にわかに活動的になった。
白熱する夏の日盛りを一日中歩きまわって疲れず、またほとんど眠らなかった。声高に壮言と虚言を話しつづけた。瞳孔はひらき加減で、薬物中毒者のように異常に明るく輝いていた。
しかし「噪」の期間は短かった。秋には急激な「うつ」のなかに沈んだ。彼女はすでに一本の鉛の棒のようだった。北向きの曇りガラスの部屋に終日ふせって、しんとしていた。
彼女は「戦中派」のひとりである。発病するまでの三十年、日本社会と足並みをそろえて「向上」しつづけた。多忙な「戦後」だった。初期には貧乏と戦い、やがて家電製品の購入とマネービルに熱中し、家を建てかえた。そして、向上よりも充実が主題の初老期をむかえようというとき甲斐なく病いを得、ついに「うつ」の海底に凍りついたのである。
彼女の場合、死はむしろ救いだった。周囲も、率直にいって安堵するところがあった。葬式もまた雪だった。綿ゴミのような雪の限りなく落ちてくる重たい空に、彼女の煙は吸われていった。

夫婦関係はコワイのである、そしてその二人の微妙な均衡の間から自分が生まれてきたのかとしみじみするころには二人とも死んでたりするわけで、ナムー。

*1:うち