中国10億人の日本映画熱愛史

中国ではマッチョ云々とか、紅衛兵世代の気持云々と、ひとくくりに言えるものなのかは疑問だけど、まあとりあえず。

紅衛兵世代『砂の器』に号泣

文革直後に公開された『砂の器』が大ヒットしたことの背景には、この映画が、紅衛兵世代の観客にたいして、センチメンタルな感動以上のより複雑な感情を喚起したということがあったのではないかと推測することもできるかもしれない。すなわち、文革期の〈父親殺し〉の記憶と、「下放」による苦しみを引きずりつつ、新たな父親像を模索していた精神的な「孤児」としての彼らは、とりわけ主人公の和賀英良が『宿命』を演奏しながら、貧しい親子が放浪の旅のなかで受けたさまざまな差別や迫害を振り返るクライマックスの場面にたいして、みずからの「宿命」を想起しつつ共感したのではないだろうか。

「去勢された男らしさ」が支那スタイル

伝統的に中国映画では、女性優位の構図が見られる。(略)
[二枚目男の]外見を形容して「唇は口紅をつけたかのごとく赤く、頬は白粉をつけたかのごとく白い」という常套句があるほどであり、恋が進展しないときに、ハンカチで目頭を押さえたり、胸元で両手を組んで「嗚呼、神様。なぜ私たちをこんなに不幸にさせてしまったのですか?」と独白したり、あるいはベッドに潜り込み咳き込んで、ときにはハンカチを赤く染めるほど悲観的に苦悩してみせる。このような二枚目の役柄は、明らかに去勢された存在となっている。宦官は、封建時代の陋習として清朝の終焉とともに廃止されたにもかかわらず、表象の次元においては、去勢された男らしさがステレオタイプとして残存していたのである。
そのために、中国映画においては、カンフー使いといった、もともと男性が演ずるべき立ち役を女性が演じるというように、女性が常に男性の代替として機能している。その理由としては、まず第一に、中国において伝統的に、マッチョな男らしさを、低次元のものと見なす傾向が強かったことが挙げられる。中国において、文化の担い手となるのが文人であり、文人=権力者、肉体派=下層階級という図式が根深く存在していた。そのため、文人的要素を欠落させたマッチョな男性像は、刹那的で衝動的な言行と結びつきやすいネガティブなものとして捉えられてきたのである。

饒舌な、おりこうちゃんに対する反発

70年代後半の中国における高倉健の人気は、マッチョな身体性のみならず、その寡黙なイメージによるところも大きかった。(略)
では、寡黙であることがなぜ中国の観客に好まれたのか。その理由もまた文革直後の状況と関係している。文革中につくられた映画において
[主人公リーダーはやたら饒舌、その雄弁さに群衆は革命運動に加わる](略)
文革後に輸入された高倉健のイメージは、このような文革期の中国映画のイデオロギー偏重の傾向にたいする一種の反動となったため、中国の観客に熱狂的に受け入れられたのである。

赤い疑惑』は恋愛メロドラマではなく、宇津井健を軸とするホームドラマとして受容

このように、文革期において、政治共同体に完全に従属するものとして否定されてしまった「家族」であるが、1980年代初頭になると一転して、政府によってその重要性が強調されるようになった。それは、経済発展の前提となる社会的な安定を維持するうえで、「社会的細胞(社会をなす細胞)」である家族が果たす役割がきわめて大きいと見なされたからであり、さらに、このころ経済活性化のための重要な手段として政府によって推奨された農家の単独経営および家族労働による自営業も、いずれも家族という単位を基盤としているからである。そのため、1981年に政府主導のもとで、「精神文明」や「五講四美」といった公衆道徳向上キャンペーンがおこなわれ、経済発展のなかでも家族愛のような伝統的な美徳を失わないよう国民に呼びかけたのである。おそらく、1984年に『赤い疑惑』が、宇津井健を軸とするホームドラマとして受け止められたのも、そのような社会的風潮の変化が背景にあったのではないだろうか。

『サンダカン八番娼館』

における労働者階級の苦難というテーマもまた、日本のイメージを好転させることに大きく貢献したといえる。すなわち、『サンダカン八番娼館』を通じて、それまでほとんど知らされなかった軍国主義政策の被害者としての日本の庶民の姿を、ショッキングな映像として目の当たりにすることによって、文革後の中国の観客のなかで、かつての支配国家であった日本にたいする親近感が芽生えたのである。

当時タブーだったヌードがあったため『サンダカン八番娼館』はエロ要素でも集客。ではなぜ一部のヌードが検閲を免れたか。

オリジナル作品における女性解放というフェミニズム的なテーマが、中国側の受容のプロセスのなかで、むしろ資本主義社会における階級抑圧というテーマヘと置き直されたのである。また、『サンダカン八番娼館』における反戦というモティーフも、中国において大きく取り上げられた。

外国映画における資本主義批判のテーマとエロスや暴力の表現とは、そもそも表裏一体となってつくられていたため、それを剥離・抽出するのも困難であり、ある程度許容されたのである。

高倉健山口百恵が別格で、栗原小巻もかなり人気。加藤剛はハンサムの代名詞。
パチモン健さん続出、そして芳雄も。

君よ憤怒の河を渉れ』を観たあと、みんな競って矢村警部(原田芳雄)の格好を模倣してトレンチコートやサングラスを購入し、髪の毛を長く伸すようにしました。