大塚久雄/人と学問

えー、いきなりですが、面白くはないです。役に立つ情報なし。じゃあなんで取り上げたのかというと、あまりにヘンな本だから。

大塚久雄 人と学問

大塚久雄 人と学問

大塚久雄著作集』の担当編集者だった著者

その編集の過程で、大塚氏は自分の幼児からの話をいろいろと筆者に語った。そのさい筆者はもっぱら聴き役で、こちらから話を抽き出そうとはしなかった。そのため、大塚氏は気遣いなく、多岐にわたって立ち入ったことまで話した。

その厖大なメモをまとめたのがこの本なのだが、岩波書店専務取締役とは思えない、ヘンな文章なのだ。例えば幼児期の描写で

その日もいつものように、子守は久雄をおぶって散歩に出かけた。しばらく行くうちに、子守はうっかりしたはずみで久雄を道端の溝に落としてしまった。久雄は火がついたように泣きだした。幸いなことに溝は土で固めたもので水量も少なかった。
子守はびっくりして久雄を抱き上げ、衣服の泥を払い、外傷を確かめたが、疵は見当らなかった。泣きじゃくる久雄をなだめ、やっと治まったところで、子守は何事もなかったようすで家に帰った。
子守は気がつかなかったが、この光景を久雄の姉が見ていた。姉は母親にこのことを告げた。それを聞いた母親は久雄の身体を丹念に調べ、外傷がどこにもないことを確認すると、子守には何もいわなかった。

このエピソードはここで終わって「成長した久雄は大変活発な子でいたずら好きであった。」と全く無関係な話が続いていく。「えっ、オチは?」と言いたくなるのが普通だと思うのだが。このモヤモヤ感を抱えつつ読み進むと5ページ後、中学二年の久雄がレントゲンを取ったら骨が折れてずれたままくっついていた。

しかし久雄には骨折の記憶はない。そこで母親にそのことを話してみると、それは久雄が赤ん坊のとき子守が溝に落とした、あの時のことに違いないということになった。あの時、久雄に外傷はなかった。それで安心したのがいけなかったのだ。しかし、いまさらどうしようもないのであった。

なんでしょう、この棒立ちな文章は。カルチャーセンター通いの主婦でももう少しどうにかするのじゃないだろうか。著者は実直に時系列に沿ってメモを整理しているのだろうけど、中二で骨折に気付いた所に冒頭の文章を挿入すればモヤモヤしなくて済むのに。いや、天下の岩波編集者がヘボ文章書いてけしからんといいたいのではなくて、平然とシュールな文章になってるところが不思議でならんのです、とオレの文章もかなり酷いけど。斜体部分あたりがさらにシュール感を高めます。
最初に助手についた河合栄治郎教授について

ただ河合に接しているほどに、彼の学問研究の姿勢にはもう一つ鋭さに欠ける面があると思えるのだった。大塚は申訳ないと思いながら河合教授から離れていった。

勝手に「戦時経済協力会」の発起人にされたため参加を拒否したら東大出入り禁止「お前は万年私大助教授」と言われてお先真っ暗、ところが<平賀粛学>諸々で教授陣がガタガタになり東大講師に復帰ときて

東大への復帰はそればかりではなかった。法政大学の事務職員までが、大塚に対する態度を急変したのだった。しかし大塚は法政大学を去ることにした。四年間過ごした法政大学は、大塚にとって決して思い出のよいところではなかった。ただその理由については誰にも語らなかった。

これまたシュール。「しかし」もヘン。文章自体も変にするつもりはないのにかなり変。フツウの文体で変な文章を書きたい人は参考になるのではないでしょうか。
バスから落ちて膝を痛め入院。快方に向かったところで

そんな時、外科の若い助教授がやってきて、足の検査をさせてくれというのだった。大塚は断わった。ところがその医師は、ただちょっと検査するだけだからといって、強引に左脚に注射針を刺して体液を採って出ていった。大塚のほかにも数人の患者が同じことをされた。

そしたら針を刺したところが化膿、古傷の胸部疾患も悪化

しかもこの医師は経済学部のある教授に対して「大塚という男はけしからん。自分が検査をするといったら、それを拒否した。不届き至極だ」と広言さえしたのだった。
主任医師であった柿沼昊作教授は大塚に謝りにやって来た。しかしそれだけだった。

で、結局左足切断。一大事というのに情報不足でシュール。針を刺された他の患者はどうなったのか、その若い助教授とはどうなったのかとかとか。
最後にドラマチックなようで、ようでない話。
大塚の片足切断を知った中野正剛が自分も義足だから義足屋を紹介しようと言ってきた。中野なんぞと関わりたくないと放置していたら、ある日、東方会の旗を立てた車が

中野は突然の来訪をまず詫びた。それから部屋の中を歩いて見せて「義足でもこんなに歩けるのだ」といった。
彼はゆっくりと腰かけると、今度は、絶対に迷惑をかけないからと断わって「ヒトラーをどう思いますか?」と尋ねてきた。
大塚はハハア、これを訊きに来たのだなと思って黙っていた。
すると中野は「ヒトラーバルカン半島に進撃した時には民衆は旗を振って迎えた。ところがウクライナに行った時には、まったく冷たくしか迎えられなかった。わたしは、これはどこか間違っているのではないかと思う。もしおわかりだったら、それを教えていただけないだろうか」といった。
そしてさらに「日本もイムパール作戦で惨敗した。早くこの戦争をやめないと、日本は潰れてしまうのではないだろうか」といった。
大塚はびっくりした。相手が中野正剛だけに、肯定も否定もしなかった。
そうすると、これからすぐ義足屋へ行こうといいだして、彼の車で義足屋へ行くことになった。大塚はここで左脚の義足を造ることにした。その後、中野とはこの義足屋で二、三回遇った。
十月初め、中野から大塚に対して、自宅へ来てくれないかという依頼があった。大塚は何事かと思ったが、義足で世話になっているので中野の家まで出掛けた。
中野正剛は二十畳敷の座敷の真中に座っていた。床の間には日本刀が飾ってあった。中野は声を落として、しかし悠然としていった。
「自分はもう長くはありません。これだけ東条に狙われていては、もうどうしようもないのです。右翼の御用経済学者は自分も何人か知っていますが、あんな連中はまったく頼りになりません。だからといって大塚さん、わたしはあなたに何も頼もうとは思いませんが、たった一つだけ願い事を聞いて下さい。それは子どものことです。わたしには二人の息子がいます。その将来について相談に乗ってやって下さい」
中野の意外な依頼に、大塚は「どこまで出来るかわかりませんが……」といいながら了承した。(略)
中野正剛は倒閣容疑で逮捕された。憲兵から相当な拷問を受けたが、中野は一言もしゃべらなかった。大塚にした約束も見事に果たした。
(略)[釈放後、自決](略)
中野正剛は官僚が大嫌いだった。訃報を聞いて大塚は、短いつきあいではあったが、世が世なら中野はブルジョア革命をするような人だと思った。
中野正剛の最後の依頼に対して、大塚は健康が極度に衰弱したため応えることは出来なかった。中野の次男は成人して戦後、大塚と立場は違うが、東京経済大学マックス・ウェーバーの研究をするようになった。

と、正剛の頼みを全然聞いてあげてない大塚なのであったw。大塚との約束って「ヒトラーうんぬん」のことなのか?説明不足じゃね?それともオレが物分り悪すぎ?。
ああなんかスゲエ時間の無駄だったような気が。
では、最後に生徒が授業を聴いてくれないとお悩みの先生方に
大塚法政助教授は、まず近所の子供相手にお話をしてやり、次に落語を勉強してトークに磨きを

大塚は教室でノートを読むようなことは一切しなかった。メモは持っていったが、それを見ることはほとんどなかった。講義の内容は前日に整理して頭の中に入れた。それから今度はそれを出来るだけ忘れようと努めた。忘れてしまうことはさほど重要ではない、重要なことは頭に残っているはずだと考えたからだ。
講義は学生の顔を見てその反応を見ながら話すことにした。わからないような学生が見えれば、その学生がわかるように話した。そしてときどき学生が喜ぶような余談を間に入れた。これは大成功で、聴いている相手を自分の話の中に引き込んでいく結果となった。
このようにして講義を進めていくうちに学生が興味を持ち始め、その数がどんどん増えてきて教室に入らなくなってしまい、一年間に二度、大きな教室に移らなければならないほどであった。