パノラマの世紀

 

パノラマって映画誕生以前のヴァーチャル・リアリティ空間で国際的配給網を持ってたのかあ。

そもそもパノラマ館とは。

序論より。

パノラマとは切れ目なく描かれた円周状の絵であって、それを収めるため特別に円形の建築物を作り、その内壁にキャンバスを設置したものだ。そして絵は現実と区別がつかぬほど似せて描かれている。見物客はまず外界との位置関係が分からなくなるように長い廊下や暗い階段を歩かされる。そして下から観覧台に昇る。その観覧台の周りには手摺りが設けられており、画面に近づけないようになっている。それによって「絵はどこから見てもその効果を発揮する。」照明は自然光で真上から採っており、屋根と天幕をうまく使って光源が見えない仕組みになっていた。これは画面の上端より上を見せないようにする効果も持っていたのである。また画面の下端を隠すのにはフェンスや実在の事物が使われた。このように絵に関係のないすべての要素が見物客の目に入らぬよう配慮されていた。なぜなら、閉じられた場所の中に描かれた世界が無限に広がっているというのが、パノラマの逆説的なありようだからだ。

ファンタスム/プロパガンダ

[18世紀末、膨張した巨大都市は]人間の視野の中に収まりきらなくなる。こうした状況の中でパノラマが決定的な役割を果たすのだ。パノラマはこの混乱した時代にふさわしい知覚と表象のファンタスムを表現するものとなり、四方八方に膨張していく都市という公共空間を昔と同じように完全に支配するためのモデルとなる。(略)
もはや現実の中に生きることができないから想像上の状況を作り、それに頼ろうとする。(略)
[第二のテーマは戦争]
パノラマはプロパガンダの役割を担っていた。(略)パノラマは国家への帰属と国家間の対立の上に築き上げられた英雄と大事件からなる歴史観を伝えようとしていたのであった。
[そして旅・異国・植民地]
ヨーロッパの遺産とも言うべき都市[ローマ、フィレンツェetc]であり、あるいは崇高な風景(スイス、アルプス)であり、またカルカッタリオデジャネイロなどのような異国情緒溢れる場所である。そのほか、帝国主義的な植民地政策と結びついた場所がある。パノラマとして描かれることによって、その政策が推進されると同時に政策そのものは人々が見つめる対象に変わるのである。

芸術産業

[キャンバスを収める円形の建物]にはかなり大がかりな投資をしなくてはならず、企業家、金融資本家、建築家、立案者、作業チーム、作業責任者など、小さいながら新資本主義的な組織が必要となった。1850年代になると株式会社が設立され、ほどなくして国際的規模にまで発展する会社もあった。これらの会社は配給網を整備し、自分たちの標準規格を定めた。(略)
産業がこれほどはっきり芸術の中に進出してきた例もあるまい。

てなカンジで時間がなければ序論を読むだけでもいいような気もするなどといい加減なことを言いつつ次に。

軍事的な敗北も精神的な勝利にw

ある包囲戦があったとすると、一方の陣営が、包囲する側の戦力をそこに見るのに対して、対立する陣営はその戦いに、包囲される側の果敢な抵抗を読もうとする。軍事的な敗北も精神的な勝利に変わりうるのである。ともあれ、普仏戦争はパノラマ画の豊かな発想源となった。フランスだけでもこの軍事衝突をめぐって八点のパノラマ画が描かれた。二年のあいだに、フランス第三共和制はその過去を見直し、そして国の誇りを呼び覚ます格好の事件を利用したのであった。一方のドイツ人も遅まきながら黙ってはいなかった。さらに一般的に言うならば、十九世紀を通してあった両国の対立が利用されたのであり、それはナポレオン一世が行った戦争のエピソードにまで容易に遡ることができる。

ピクチャレスク

崇高なるものが持ちうる属性のうちで、エドマンド・バークは恐怖、暗闇、広大さ、無限を挙げている。形の違いこそあれ、そういった様相はどれもパノラマの根底にあるものだ。恐怖は、戦争の題材や、眩暈やら船酔いにまで至る擬似体験から生まれる。暗闇は、ロバート・バーカー[パノラマ考案者]が円形ホールに入っていくときに欠かせぬ条件としたものだ。それは、隠された光源から画面に落ちてくる天井採光の明るさと対照的な観覧台の暗がりによってさらに強調されている。残りの無限や広大さは、パノラマの狙いのまさに核心をなすものである。

立ち位置/機械的な再現

パノラマは、その奥に隠れているかもしれない真実など気にもせず、客観的事実をそのまま再構築しようとしていた。
パノラマが証言性という側面を持つので、一度決めたら厳密に守らねばならない視点をどこに取るかということが極めて重要になってくる。しかもその視点は、ぐるりと取り囲む地平線の中でもとりわけピクチャレスクな要素を最良の条件で集められるように、遠くへの見晴らしと、邪魔な障害を避けるための高い位置を同時に得られるところでなくてはならない。(略)
パノラマとは、一つの視点を選んだことによってもたらされる構図以外のなにものでもない。それはほとんど百科事典的な性格を持ったドキュメントとなり、事実の細部を手当たり次第に記録していく。パノラマに選別はできないし、それをしようともしていない。(略)そこで問題になっているのは、現実の機械的な再現であり、魂の抜けた再現なのである。それゆえ、あらゆる芸術的な振舞いは排除されてしまうというものだった。

芸術界からの批判

通俗的な現象であったパノラマはエリートたちを脅かし、彼らの芸術的な営為の独占を脅威にさらした。しかもパノラマ画家たちがアカデミーの独壇場、すなわち歴史画とほぼ同じものと見なしうる戦場とか戦争のテーマに程なく踏み込んできたのだから、事態はいっそう深刻であった。
カメラ・オブスクラの利用、ピクチャレスクなものの受容、詩的な逸脱なしに現実の視点と厳密に一致すること、機械的かつ忠実な記録、細部の詳細な描写。こうしたことすべてが美術界を苛立たせたのであった。パノラマには否定しがたい技術的な面での価値があることは認められていたが、芸術、偉大な絵画(かなり凡庸な絵が多かったのは事実である)の領域からは追放されていた。このようにパノラマを卑下するような態度はしばしば見られた。十九世紀でも後になると、パノラマは単なる産業製品の位置に貶められてしまう。

モネの『睡蓮』

ジヴェルニーに描いた連作を国に寄付しようとしたとき、モネは自分の作品を収める円形ホールを建設するよう強く求めた。それは途切れることのない視覚的連続性を使って最良の環境で鑑賞してもらうためであった。1910年にモネは次のように説明している。「私は部屋の装飾にこの睡蓮のテーマを使いたいという気持ちに襲われた。睡蓮を壁づたいに描き、部屋全体の壁面を睡蓮だけで覆うと、終わりのない全体、水平線も岸辺もないひとつのうねりがあるような錯覚が生まれるだろう。まどろむ水が疲れを癒すように、仕事で酷使された神経はそこで解きほぐされる。この部屋にもし往む者がいるとすれば、そこは花で満ちた水槽に囲まれて穏やかな瞑想をする隠れ家となるであろう。」ここにも水平線の消失とつくり出された空間の無限性によって強調された内部と外部の逆転が見いだされる。