トリックスター村上ファンド

1999年ユニゾンの佐山展生を訪ねて、君らが始めた”ファンド”って何?と素人質問をした通産官僚村上。プロ中のプロとは、何のプロなのか。

  • 伝説検証

小学三年で親から百万もらい、それを大学入学までに一億にしたという伝説。

  • 小学生が口座開設できるのか?父親の口座なのか
  • 小三〜中学時代(1968-1975)に持っていたという同和鉱業株だが、その時期、村上が「指値で買った」という630円には届いたことはない。是川銀蔵のせいで値が下がったというが、それは1980年のことetc。自分でも矛盾に気付いたのか途中からもっぱらサッポロビールネタに移行。
  • じゃあそのサッポロビール株はというと、村上の小学時代は一貫して冴えず頻繁に売買すれば損をするだけ

すると、『会社四季報』を見て銘柄選択をし、短期売買を頻繁に繰り返していた、というよりは、最初に買ったサッポロビールがいきなりしこって塩漬けになったが、結構な配当をしてもらえたので、小遣いには困らなかった、という「相場師の卵」とは対極にある「金持ちのボンボン」っぽいエピソードになる。村上実業を興したばかりで、家をよく空ける父が、毎年のお年玉や小遣いをキチンと上げるのが困難になったので、サッポロビールに、配当という形でその代役をしてもらっていただけというのが真相なのではないか。

  • 株の儲けで買ったという大学時代に住んでいた高輪のマンション、実際の所有者は父親
  • 村上ファンド実績

2004年初までは平均年率10%程度と世間的なイメージとは裏腹にそれほど運用成績は高くはない。とりわけ日本初のプロキシーファイト(委任状獲得競争)で注目を集めた東京スタイルを手掛けた年は年率ゼロ。ふがいない結果に終わっている。(略)
シードマネーの38億円はせいぜい138億円にしかなっていない。村上ファンドの4444億円もの巨額規模は、そのほとんどは海外の新規資金の流入によるものだ。

  • デビュー戦:昭栄への敵対的TOB

完敗だった。(略)村上の「この国を変えたい」発言があまりにも多いことに腹を据えかねたオリックス幹部からは、「君は世直しをしたいのか、ファンドマネージャーとしてやっていきたいのか、はっきりすべきだ」といさめられてもいる。村上はファンドマネージャーとしてやっていくつもりです」と答え、その後しばらくはマイノリティ出資で株価を上げる投資手法へと切り替えている。

出資元オリ幹部回想

昭栄のTOBから始めたが、かなりこちらで指導していたというのが実情だった。昭栄TOBが失敗したあとに、『どういう風になりたいんだ?一発屋か?』と聞くと、『存在感を持ったファンドになりたい』『筋を通したい』と言ってきた。『中途半端にやるなよ』と言ってやった。当時の村上は官僚として大上段に入っていった。これは誤解されるな、と思った。当時の村上は筋や理想論が勝っていたが、同時に本当の株好きであった。ビジネスでもあるんだということをキチっと言うべきだ、と宮内に伝えた。村上の最初の考え方は確かに青かった。100%オリックスの言いなりということではないが、その後に随分と軌道修正した。

そして2003年あの東京スタイルに挑むも、高野社長の老獪さの前に敗れる。この本は当然村上に批判的なことが書かれているのだが、以下記述は別だ。

国内初のプロキシーファイトの取材をしてきた記者団には妙な連帯感がわき、小さな社会革命に参画しているかのような錯覚がもたらされた。村上が「記者ならボクに聞かないで、東京スタイルのこの大株主にどうするつもりか、取材してきてくださいよ!」と言うと、次の会見では、「村上さん、取材してきましたよ!」と手柄を争う場面もあった。

なんでしょ、この大甘なはしゃぎっぷりは。オリックスから甘いと指摘されていた村上の理想論に記者団すっかり乗せられてたわけだ。ホリエモンの球団買収で浮かれていたヤングと大差ない状態。著者達も一緒に夢を見たのでしょうか。
さて翌年再度東京スタイルに挑戦した村上は僅差で敗れるが、海外投資家の間で評価が高まる。

村上の名は高まったが、実を取れなかった東京スタイルをきっかけに、名より実を取るようになっていく。それも、実を取るためには手段を選ばない際どい手法まで駆使する傾向を強めていった。

西武株の顛末

村上ファンドが西武株を購入したのは、名義株問題の発覚で、それまで1000円台半ばだった西武の株価が400円台にまで急落したころだ。保有株比率で1.4%程度まで買い上げている。これを武器に、村上はTOB提案を仕掛けようと、2004年12月半ばに、グループオーナーの堤義明と極秘会談を持った。
会談は一時間半にわたり、そのほとんどを村上がコーポレートガバナンスのあるべき姿や買収提案の中身について話したのだという。村上が希望する株の買い取り価格は一株1000円、堤の売却価格が一株1400円と開きがあったものの、堤は村上の話にすっかり感銘を受けた様子で「こんな話は初めて聞いた。あなたに預ける」と語ったという。
「堤さんとディールができるよ」
この夜、村上はある外資系金融機関の幹部に資金調達の相談をかねて電話をかけている。話はトントン拍子に進み、堤の仲介で、後に自殺する西武鉄道社長の小柳皓正、プリンスホテル社長の山口弘毅、コクド社長の大野俊幸と2004年12月20日前後に東京プリンスホテルで会食した。そこで村上案への協力の約束を取り付けた。
だが、2005年1月になると潮目が変わる。メインバンクのみずほから圧力がかかった大野と連絡が全く取れなくなった。村上がようやく大野を捕まえて問い質すと、手のひらを返したように「われわれはお宅と交渉するつもりはない」とそっけない。
不穏な空気が流れる中、堤に確認すると「村上君、申し訳ない。大野が泣きを入れてきた。みずほ案で行ってくれないのならカネを返せと銀行が言ってきた」。

ドリテク株:ライブドアの仕返しが皮肉にも

[ドリテクに発行価格を下げさせておきながら]50億円分の新株を引き受けた村上ファンドは、翌営業日から連日株式を売り浴びせている。「(村上さんは)長く付き合うと言っておきながら、即、株を売ってくる」(池田社長)。ドリテクにとっては信じがたい仕打ちだった。
このため、村上ファンドヘの腹いせから、12月20日にドリテクはライブドア証券へのMSCB発行を発表。村上ファンド転換社債の支払いを済ませた当日に、役員会でライブドア証券へのMSCB発行を決議したのだ。ニッポン放送村上ファンドに利用されたと恨んでいたライブドア幹部は「村上さんへの嫌がらせ」に二つ返事で応じたという。
しかし、こうなると村上ファンドも黙っていない。20日にMSCB発行が発表されると、村上代表から池田社長の携帯に「ヒドイじゃないか」と電話がかかった。当時ライブドア取締役の宮内完治氏にも電話が入り、その直後に同じ六本木ヒルズにあるライブドア本社に来て、「お宅とはケンカしたくないと思っているんだけどね」と、遠回しに抗議した。
MSCBを発行すると、株主価値が大幅に希薄化する可能性が高まることから株価は下落しやすい。MSCBを引き受けたライブドア証券が株を売るため、村上ファンドの売却もやりにくくなる。ここだけをとらえれば、村上側の怒りはもっともだ。しかし、あにはからんやライブドア証券へのMSCB発行の発表直後、ドリテクの株価は上昇した。ライブドア事件の前ということで、ライブドアの経営参加は、悪条件のMSCBを引き受けても、むしろ市場では歓迎されたとしか考えられない。村上ファンドはしたたかにも、すかさず株を売却している。

著者は村上テクニックにえらく怒っているが、逆質問されるというのは愚問だからじゃないか。言質を取るための質問、回答者を窮地に追い込む答えしか求めていない質問、そういうバカげた質問に逆質問するのは「悪いことでしょうか?」。そこで答えられないのは、愚問だと自分で証明してるんだよ。オシムなんかゴミ質問に、ビシビシ逆質問してたよ。

さあ皆も朝生で田原総一郎に逆質問しようぜ。

「村上さんは以前、法律を破らなければ金儲けはしていいんだと、お話をしてましたけども、そういう考え方には変わりはありませんか」との質問には、「金儲け悪いことですか」と逆質問。(略)
この逆質問は、村上テクニックの中でも最上位に位置する。記者は、質問をすることに慣れているが、質問をされることには慣れていない。逆質問によって問題のすりかえを図り、村上は数々の難局を乗り越えてきた。例えば、ニッポン放送株の買収を始めた当初、「なぜ放送株を買ったのか」との質問に対し、「なぜ上場しているのか教えて欲しい」と眉間にしわを寄せて逆質問していたが、これでは質問の答えになっていないことは明白だ。

暑苦しい日曜の夜になんだか暑苦しいネタを扱ってしまった。

執拗に女性をお持ち帰りしようとする男が「ねえ、ホントに何もしない、約束する?」と聞かれて、
逆質問。
「じゃあ、ここで君に聞こう。君はホントに何もしたくないのかい?」