談志絶唱 昭和の歌謡曲 立川談志

なにせ「”歌謡グループ”だ何だとくると、家元はマヒナスターズまででもうダメ」という次元なので殆ど知らない歌の話ばかり、それでも家元の語り口ですいすい読めます。昨今のネットで調べてるような輩と違って全部自分の記憶だからと家元。こんな調子。

”何で戦後はカムバックしなかったんですか、唄わなかったんですか”に、小野巡さん、好々爺のあの顔で、”あたしは軍事歌謡が多かったもんですから、戦後はもう精根つきた””もう私の時代[イメージ]ではない”と答えたが、戦前、姓は大山、名は巌〜……の『祖国の護り』を唄って一発目でヒットさせ、以後順調に『涯なき泥濘』『西湖の月』『音信はないか』『開かぬパラシュート』『円タク行進曲』、皆全部唄える。

淡谷さんがなぜコロムビアをやめてビクターに行ったのか。二葉あき子の『夜のプラットホーム』などは確か淡谷さんのための曲だったはず……。一度テレビで唄っているのを聴いたが、見事なものであった。淡谷節であった。二葉さんには悪いが、一段も二段も姐さまであった。『君待てども』や『フランチェスカの鐘』などもこのケースではなかろうか。
つまり淡谷さんが他社に移るので、コロムビア時代、淡谷さんのために作った歌をそのまま二葉さんに唄わせた。淡谷さんに対抗して、第二の淡谷のり子として二葉あき子を育てたのか。そんな気配を感じるのだ。

というわけで、本題とは別のエピソードを。

談志絶唱 昭和の歌謡曲

談志絶唱 昭和の歌謡曲

売れる前のキラー・カーン

「師匠、明日、マディソンスクエアで、アンドレ・ザ・ジャイアントとメインでやるんです」
そういう優しい男なのだ。だが、それはのちの話で、二人で大陸を走ったときはまだそこまではいかず、メヒコからジョージアに入り、安いファイトマネーだった。そう二百ドルくらいか。ジョージアで合宿をしていて近所に試合に出掛けていく。試合が終わりキラー・カンの運転する車で帰る。試合場から合宿まで。そう、東京・浜松間ぐらいかなぁ。お互いビールが入って、ほろ酔いである。(略)
その車中で一緒に唄ったのが、三橋さんの『赤い夕陽の故郷』だった。
彼がメヒコに渡る前に、彼に頼まれて、世田谷区は鳥山にあった三橋邸を共に訪れている。電話がかかってきた。「あのォ、小沢です」「何だい、久しぶりじゃねえか、元気か」「ハイ。明日メキシコに行くんです。当分あっちで修業です」「で、何だ」「三橋さんに……」
で、予約もなにもなしの飛び入りの三橋邸だ……。

三波春夫ちょっといい話

三波春夫」はあまり好きではなかった。つまり浪曲師としてあまり認めてなかった、ということなのだ。(略)
三波さんと会った。テレビだ。”どしたの”と、例の破門問題のときだった。
「師匠に破門されたって?」
「そう」
「いいじゃないの……」
この言葉、”いいじゃないの”といったこのときの三波さんの言葉、”ズシン”ときた。正直嬉しかった。この人は独立独歩の人だったはずだ。師匠なしの芸人だったはずだ。で、この会話か。それにしても本心を感じた。”それでいいんだよ”と……。現在でもこの言葉が想い出とともに重く残ってる。
この人ともっと話しておきたかったというのは、こういう会話があったからだ……。
ギンギラギンはこちとら大っ嫌いだから付き合いはなかったが、声よし、歌よし、あのサービス精神の三波春夫と、”あれ、これ”喋りたかった。が、もう遅い。

ここでもちらりとガンにふれ

都知事の歌」なんてできないかネ。
  俺は都庁の親分で
  勝手気儘にほざいてる
  責任とらずに済むだろうな
  男石原慎太郎……
ダメかァー。
  落語家は修業厳しい人生よ 家元目指してガンになり……、馬鹿々々しいや。

で、敬愛する

三橋の老残に己の老いを重ねて語る

己の芸の、または肉体の下降線を、下り坂を、歌い手は、それらを感じないのかしら。ガン患者が、”これはガンではない”と思い続けるのと同じように。
カツラを着けた後年の三橋さん、声も落ち、病気のためか音程も狂うのだ。”俺ネ、声が出るんだよ。オクターブも下げるどころか、上げるんだ”といってたけれど、唄う姿は惨めであった。
三橋さんに対して”惨めであった”とは、”亡き人に対してあまりにも残酷ではないか”とも思う。”ならば書くな”という反論も当たり前の如く生まれるだろう。
けど、書いているということは談志の中に”治る”、いえ何とかもっと”ごまかせる”という思いがあるからだ。それは仮に当人の誤認であっても、ナニ、往年の三橋美智也ではなかろうが、人生を経てきた三橋美智也、声は枯れても三橋美智也は立派に存在したはずで、その方法はあっただろうに……。いえ、”あるのに”という勝手な怒りである。
(略)
[老いを]もっともっと己の中に、己の人生のプログラムに何で取り入れなかったのか。そのことの恐ろしさ、怖さを感じなかったのか。感じたらそのことを己の芸の中に放り込めたのに……。はたまた感じてはいるが、怖くて、それに関わりたくない、と逃げ回っていたのか。

とはいえ、ピリオドを打つときがくる、当たり前の如く。それはくる。もうすぐくる、くるよォ……いや、きてる。ここ数年、それを感じ、「生」に怯えている。生きているのが辛いのだ。むしろ死は怖くない。それを迎えるために生きていることが恐いのだ。キャアーッ。
それでもまだ己の落語人生はどうやら現役で在ると思っているのは、歌手たちと同じことなのか。立川談志の場合は、”歳を取ってもいい”、また、”歳を取らないと昧が出ない”という錯覚によって、客が許してくれてはいるが。いや違う。”何か”を求めている。その”何か”は判っているし、演じている。けど老ける。そして死ぬのだ……。

最後に、そんな家元の子供時代を振り返ってサヨウナラ

数多いヒット曲のなかから、家元は『雨の屋台』『ダンディ気質』『玄海ブルース』を挙げる。ガキの頃、レコード集めてきて聴いていた。その年代では、歌を共有できるガキ友達はいなかったので、独りで聴いていた。特に雨の日は、戸外で遊べないから何もできない。で、自分で集めたレコードのベストテンを作って順にかける。最後はバタやんの『玄海ブルース』にするか、「パティ・ペイジ」の『涙のワルツ』にするかで、いつもあっちかけたりこっちかけたりして、楽しんでましたっけ。そう、和洋一緒のベストテン。そういう子供でありました。