人権の政治学

飛ばし読み。

人権の政治学

人権の政治学

人権は切り札にならず、逆に妥協を欠くことに

ある要求を権利とよぶことは、その要求には交渉の余地がないといっているのと同じなのである。したがって、政治的な要求が権利の要求に転換される場合は、問題になっている論点が妥協の余地のないものになりかねない現実的な危険がある。権利要求の言葉を使うことによって、妥協が促進されるわけではないのである。
もし権利が切り札でないとしたら、そしてもし権利が交渉の余地のない対決の精神をうみだすとしたら、権利の効用とはいったいなんなのだろうか。せいぜいのところ権利は、対立する当事者が共に熟議するための手助けとなる共通の枠組み、共通の参照点をつくりだすだけである。とはいえ、共通言語はかならずしも意見の一致を促進するわけではない。たとえばアメリカの中絶をめぐる論争においては、賛成・反対の両陣営が、人間の生命を非人間的に扱うことは禁止されるべきであり、人命には特別な法的および道徳的な保護を受ける権利があるということに同意している。ところが、これは共通の基盤というには程遠いものである。それというのも、ふたつの陣営は、人間の生命が始まるのはいつなのかという点に関して、そして母親の要求とまだ生まれてない子供の要求のどちらが聞き入れられるべきかという点に関して、意見が一致していないからである。
この事例が示しているのは、人権の機能とは、論争の当事者が共通の基盤をみつけるための手助けとなるように、共有された道徳的価値観のいっそう高次の領域を明らかにすることである、と考えるのは幻想だということである。

論争終結のためには

それとは別の政治的な要因、たとえば、揉め事はもううんざりだという気分が双方で共有されること、相手に対する敬意が芽生えてくること、おたがい同士を認め合うことなどが不可欠である---意見を一致させようというのなら、道徳的普遍に対する共通のコミットメントに加えて、これらのすべてが出揃っていなければならないのである。

人権幻想

私が批判したいさらに大いなる幻想は、人権は政治を超越している、いい換えれば、人権とは政治上の論争に決着をつける働きをする道徳的切り札だ、という考えである。(略)
人権は政治以外のなにものでもない。そして政治とは、具体的な状況と道徳的な目的との間で折り合いをつけなければならないものであり、また、手段と目的の間だけではなく複数の目的自体の間での苦渋に満ちた妥協を引き受ける覚悟をもっていなければならないものなのである。

人権を宗教化するな

人権がひとつの「世俗宗教」と考えられているとすれば、それは誤解だということである。人権は宗教的な信条ではないし、形而上学でもない。宗教的信条や形而上学にしてしまうと、ある意味で人権を偶像化することになる。つまりヒューマニズム自体を崇拝するヒューマニズムという奇妙な代物になってしまうのである。
(略)
たしかに、人権という考え方をつぎのような主張に結びつけたいという誘惑にかられることがある。すなわち、人間には生まれながらにして尊厳が内在している、人間には本性的かつ本質的にそれ自体としての値打ちがある、人間は聖なる存在である、といった主張である。こうした主張の問題点は、それが誰にとっても明白というわけではないため議論の的になるということである。
(略)
私がここで主張したいのは、この種の基礎づけ主義的議論をいっさいなしですませるべきだということである。そしてまた、人権が現に人間にとって役立っているということを根拠にして人権の支持論を構築するほうが、それよりもはるかによいということである。

なぜ、人権をこのような「最小限主義の方法で」正当化する必要があるのだろうか。

1945年以来、人権言語は権力と権威の源泉となった。しかし、なんであれ権力に対する異議申し立てがおこるのは避けられない。いまでは人権の教義は非常に大きな力をもっているが、しかしまた人権の普遍性を主張する際にうかつにも帝国主義的な態度をとってきたために、深刻な知的攻撃にさらされるはめになったのだ。こうした異議申し立ての中で提起されているのは、人権はそれが獲得してきた権威に値するものなのかどうか、人権の普遍性の主張は正当なものであるのかどうか、人権とは狡猾なやり方で実践された西洋の道徳上の新しい帝国主義にすぎないのではないか、といった重要な問題である。

相対主義からの批判には、権利の言説が個人主義的であると認めることが最良。

西洋の人権活勤家たちは、これまで文化相対主義者の異議申し立てに対してあまりにも弱腰だった。相対主義は、いつの時代にあっても暴政を正当化するための口実となる。人権の言説の核である道徳的個人主義についていいわけしなければならない理由はない。まさにこの道徳的個人主義こそが、搾取や抑圧を受けている従属集団にとって、人権を魅力的なものにしているのだ。

人権に対する--アジア、イスラム、西洋のポストモダニズムから生じる--文化的異議申し立てに敢然と立ちむかう最良の方法は、そのような異議が真実であると率直に認めること、つまり権利の言説が個人主義的であるのは真実だと認めることである。しかし、まさしく権利の言説が個人主義的であることが、権利の言説は暴政に対する効果的な治療法であることのあかしであり、きわめて多様な文化に属する人びとにとって魅力あることのあかしなのだ。

仮想批判例一部

イグナティエフ君、君は、人びとがそう望めば我々の文化から離脱できる、それさえ認められれば、我々の文化全体をどうこうしようなどとは思わないと主張する。君の提示する人権アジェンダは、君自身が「どんなものであれともかく生活」とよぶものに基盤をあたえることに限定されており、文化的に多元的な世界での多種多様な社会的善をイメージしているのだ、と。我国で我々男性を侮蔑した女性を殺すのはやめなければならないが、それ以外は何事もなく我々の文化は存続するだろう、と暗にほのめかしている。しかし君は、まさに君が反対している当のものが、我々の文化を規定しているということを全然理解していない。

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