ポーと雑誌文学

無断使用の英国文学が氾濫、無名アメリカ文学者が陽の目を見る機会は殆どなく、「国民文学」の気運が高まれば仲間褒めで真っ当な批評は成立せず、あげくパクリも横行、大衆化に対応したいが、質は下げたくなく、雑誌で大衆を教化できればと考えたポー。いつの時代もそうなのねー、めげるわー。

後進国のA文学宣言

周知のように、アメリカは1812戦争で勝利して以来、表面上は経済的独立を果したものの、実際には依然としてイギリスの後進国であった。文学においても、国際著作権法がなかったこともあり、イギリスの人気作家や詩人の作品がそのまま大量に印刷され読まれていた。雑誌も例外ではなく、主要なイギリス雑誌が、ときには本国よりも安い値段で、販売されていたのである。文学批評においても、イギリスによる評価がそのまま受容されていた。イギリスのアメリカ文学に対する評価は厳しく、アメリカ人にとって屈辱的ですらあった。
しかしながら、産業化の急速な進展により、経済面での実質的独立を果たしつつあったアメリカは、文学においてもアメリカ独自のものを強く求めるようになった。(略)30年代、40年代は、「国民文学」への期待がもっとも高まった時期でもあった。その結果、アメリカ的な題材が賞揚され、アメリカ的なテーマが盛り込まれた小説が、ほとんど無批判に、もてはやされたのである。
自国の文学に対するこのような態度の変化は、ボーにとって、「過度の卑屈」から「過度の傲慢」への反動的な変化にすぎないと思われた。若い頃よりヨーロッパ文学に慣れ親しみ、その影響を受けていた彼にとって、アメリカ的な題材の賞揚は、もうーつのリージョナリズムにすぎなかった。

ゴッシク小説と推理小説

人間の理性では説明がつかない超自然的な現象を扱うゴシック小説と、あらゆる出来事を合理的に解明してみせる推理小説とは、一見正反対の世界を指し示しているようにみえながら、謎という一つのモチーフによって結ばれたコインの裏表にすぎないのである。すなわち、謎が人間の理解を超えれば、ゴシック小説となり、謎に対して人間の理性が勝利すれば、推理小説へ傾く。

彼にとってこの世界は、すでに何かを喪失しているのであり、その復元は、死後の天上界においてしかなされ得ないということだ。ポーの主人公たちが死に魅せられるのもそのためである。ポーにとってもっとも重要なのは、過去を未来において取り戻すことである。その結果、現在というこの世界は、過去と未来の狭間で限りなく不確かなものとなる。ポーのゴシック小説は、いわば、現実世界が過去の亡霊や未来の破滅=死によって浸食される不気昧さや恐怖を描いているといえよう。そしてほとんどの主人公が、日常世界にぽっかりと口をあけた奈落へ呑み込まれてしまう。

ポーが凶暴な犯行をオランウータンに帰したのは、もう一つの重要な目的のためである。すなわち、動機なき殺人の創造である。読者がもっとも期待を抱く動機の解明を、彼があっさり捨て去ったのはなぜだろうか。動機の解明とは、つまるところ、殺人行為に意味と整合性を与え、行為の異常性を理解可能なレベルに引きさげて手なづけることである。それは、ポーにとって、陳腐な因果応報の法則にすぎず、物語から教訓を引きだすことにつながる。(略)
ポーの関心は、行為の意味を理解することではなく、意味づけ不能な闇の力を示すことにある。デュパンの分析も、それゆえ、犯行の意味内容よりも、犯行のプロセスに重点がおかれる。

パクッた奴にドーン!

1891年の著作権法の成立まで、アメリカでは、イギリスの人気作家の小説や詩が、そのままコピーされて、販売されていた。いわゆる海賊版の横行である。いわば、アメリカの出版業界がこぞって剽窃=盗みを犯していたのである。その結果、国内の作家たちは、ただ同然のイギリス作家の作品と競うことになり、彼らの作品は安い値で買いたたかれることになった。文筆業で食べていくことは、当時のアメリカにおいては、ほんの一部の人気作家を除けば、不可能に近かったのである。(略)
海外から押し寄せる複製品に苦しめられる一方で、「モルグ街」や「黄金虫」などの人気は、ポー自身の作品の複製も促すことになった。それらの作品は、彼の承諾なしに他雑誌に掲載され、彼に正当なる富をもたらす代わりに、資本家を肥やすことになった。(略)
したがって、「盗まれた手紙」におけるD大臣の「盗み」に対するデュパンの復讐は、アメリカの出版業界にも向けられているといえよう。

著者が保証金を出す

アメリカ人の作家の作品を出版する際には、大抵の場合、保証金を要求され、利益があった場合にのみ、純利益の10%が支払われたという。たとえばポーの場合、『アル・アーラーフ、タマレイン、および小詩集』を出版しようとしたが、百ドル用意することを要求され、ポーにはそれができなくて断念せざるを得なかった。ポーが批評家、雑誌編集者としてかなりの名声を得るようになった1839年になってようやく『グロテスクとアラベスクの物語』のニ巻本が750部出版されたという。この場合でも利益はすべて出版社のものになり、ポーは版権と数冊だけを手にした。

女は家庭の王様か

当時の大多数の女性たちは急進的なフェミニストからはほど遠く、妻や母として家庭を守ることに専念していた。家庭こそは、「社会的に無力な女たちが、自己確立の手段として作った理想像」であり(略)
本来、聖書が置かれたはずの客間のテーブルに、これらエチケット本やギフトブックが置かれるようになったことは、建国以来、社会を支配した厳格なピューリタニズムが衰退し、それに代わって、家庭を中心とした文化が台頭してきたことを象徴するものであろう。(略)
母性礼賛は、母性の神格化を生み、女性たちを長年にわたって縛り、時には重荷となってのしかかることにもなる。しかし、別の見方をすれば、女性たちは「自尊心の基盤、家庭におけるカリスマ的権威、自分なりのものの見方、自己愛」を獲得することにもなったのである。
こうして家庭内の権威的存在となった女性たちは、産業化と貨幣経済への対応で外界にしか目が向かない夫に代わり、道徳、教育などを支配するようになった。

ダイム・ノベル(10セント本)で大衆化が加速

ティーブンスの成功に気をよくしたビードル兄弟は、同様の作品を出版することを考えるが、その販売に際して、画期的な新商法を試みた。彼らはまず、実際に本が店頭に並ぶ二ヵ月ほど前から、新聞広告、サンドイッチマン、看板を使って「セス・ジョーンズって誰?」というコピーを流した。しばらくしてコピーを差し替えるが、そこにはアライグマ皮の帽子、鹿革のシャツに脚絆という典型的なフロンティアのいでたちに、マスケット銃を持った男の絵が描かれ、「俺だ、セス・ジョーンズは」と言葉が添えられていた。こうして人びとのなかに十分関心が高まった頃、エドワード・エリス著『セス・ジョーンズ、フロンティアの捕虜たち』の販売が開始された。当初の6万部はすぐに売り切れ、最終的には50万部という驚異的な売り上げを達成したのである

うーん、暑さのせいか、面白くない。