中世後期のドイツ文化

途中放棄、しかも少量、他の本と合せ技にしようかとも思ったが。ま、今週はバタバタしてたし。

中世後期のドイツ文化―1250年から1500年まで

中世後期のドイツ文化―1250年から1500年まで

  • 作者: ハンス‐フリードリヒローゼンフェルト,ヘルムートローゼンフェルト,Hans‐Friedrich Rosenfeld,Hellmut Rosenfeld,鎌野多美子
  • 出版社/メーカー: 三修社
  • 発売日: 1999/10
  • メディア: 単行本
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金貸しより質屋稼業でユダヤ人追放

利息を取って金を貸すことも高すぎる利率も、それ自身では広く世間の怒りを招くことではなかった。事実ユダヤ人の金貸しが急速に築いた富は嫉妬や強欲を呼び起こしはしたものの、中世末期の反ユダヤ主義を促進することはなかった。貸付や利息が問題ではなく、質屋制度の業務そのものに問題があったのである。(略)
略奪や盗みによって得られたものさえ、中世の盗品故買者法によって合法的に担保に入れられた。給料の低い使用人や労働者、それどころか子供でさえあらゆる盗品を質屋に運び、質屋は客の苦境を利用し、その品物をはるか半値以下で担保に取り、金を貸し付けた。職人は自分の物(たとえば必要不可欠な道具など)が盗まれたことを完全に証明できなければ、一定額を質屋に支払って、その品物を取り戻さねばならなかった。(略)
質屋はこのように、担保物件の価値の半値あるいはそれ以下しか貸さなかったので、担保期限が切れたあと高利益で転売できる様々な品物の所有者になった。質屋はこうして安価な品物を売る萬屋や古道具屋になり、ツンフト誓約によって専門労働に縛られた手工業者や、商品を質屋ほど安値で提供できないため売れ行きが激減した小商人たちの、腹立ちや憎悪を買ったのである。手工業者や小商人の苦情の結果は、1516六年、レーゲンスブルクで起こった長引く難しい訴訟であった。この訴訟でユダヤ人に有利な判決が下されたとき、人々は力ずくでユダヤ人を追放し始めた。

ハンセン病

あらゆる種類の放浪者たちに対して世界は開かれており、かれらの多くは祝祭日や余暇の娯楽の担い手として人気があった。その代わりかれらは危機的情況のもとでは冷遇され、法の保護を受けられなかった。これにくらべ絶望的だったのはハンセン病患者の状況だった。ハンセン病患者は財産や相続権を失い、共同体や入植地から追放され、いわば生きながら死んだも同然だった。(略)はじめのうちかれらは野中のみすぼらしい小屋「フェルトジィーヒェ」に住まわされたが、13世紀以降は都市郊外に(ハンセン病患者用の)特別病院が建設された。男女は分けられて、異性間の交際は禁じられ、しばしば会話すら許されなかった。病人は同伴者なしでは外出できず、灰色の衣服をまとい、人とすれ違う前には角笛や鳴子で警告しなければならなかった。(略)この隔離に反対する暴動も時には起こった。

うーん、いつの時代もアホです

14世紀にはこの集団ダンスから紳士淑女が腕を抱きしめあうカップルダンスが生まれた。(略)とくに農村や小市民においては、ダンスは生きている歓びや性愛を表現する陽気な舞踏会になった。(略)大民衆説教師ガイラー・フォン・カイザースベルクはダンスに断固反対し、「当世ではダンスという名目で、場所柄をわきまえぬ前代未聞の卑猥行為がおこなわれている。(略)
そのうえ無骨者が現れ、ダンスする振りをして女性や生娘をやたらと振り回し、高く放り投げ、彼女らを前後左右から、また女性の恥部まで覗き見し、不潔に汚らしく踊っている。それにもかかわらずかれらは人気があり、宮廷に出入りするまでになっている。かれらが生娘や女性たちを高くあげてやると、娘たちは喜び、恋が芽生えている。いったい男どもは、娘たちを回しながら彼女らのどこを見ているのか。とんでもない、恥さらしな猥褻な行為だ。とんでもない」と嘆いた。