シンス・イエスタデイ・その2

前日のつづき。

シンス・イエスタデイ―1930年代・アメリカ (ちくま文庫)

シンス・イエスタデイ―1930年代・アメリカ (ちくま文庫)

刈上げニューウェイブ

1920年代の女性ファッションが短いスカートや、衣服の重さと煩わしさを大幅に減らすことや、ずん胴でぺちゃんこの胸や、ダッチ・ボブ型の断髪か少年のような刈上げなどを好んだとすれば、それは確かに女性たちが成熟した女性美という拘束と重荷にうんざりして、未熟さがもつ自由と楽しさを望んでいたことを暗示している。(略)
もしショーウインドのマネキン人形や百貨店の広告に描かれた着飾った女たちが、冷たく、無表情で、厭世的な表情をしていたとすれば、それもまた1920年代の女性の理想をあらわすものだ。まだ少女だが、肉体が成熟する前に、体験的にはすでに大人になっていて、もはや動揺したり、何かに熱中したりする可能性はとっくになくなっているような娘なのである。

そして1930年代はボディコンw

平べったい体型も、やはり廃れていた。1933年4月号の『ヴォーグ』誌は、「この春の流行は”曲線”!」と書きたてた。この年には豊満な曲線美も露わなメイ・ウエストが、『私は悪女じゃない』で映画館を満員にした。(略)フォームフィット・ブラジャーも、胸のふくらみが二つくっきりと目立つ若い女性の写真をのせて新製品を図解し、「若々しい、はっきりとした胸の線をつくります!」と謳って気を惹こうとした。1920年代には扁平な胸の小娘だった女性たちも、成熟を目指し、豊かな胸を誇るようになっていた。(略)
1930年代初期の新タイプは、けだるい感じの顔ではなく、機敏な風貌で、小生意気に鼻を上向かせ、快活で知的な表情をしていた。

インサイダー情報、新株発行、持株会社

上院の銀行通貨委員会は、追及の手をゆるめない法律顧問フェルディナンド・ペコラに助けられて、1933年のあいだずっと断続的に、ワシントンの委員会室で前代未聞の特別ショーを聞いていた。それは、アメリカ金融界に対する時期おくれの検屍審問のようなものだった。(略)
ウォール街の相場師は、会社内部の人間と共謀して、市場の株価を操作していた。小さな投機業者や一般の投資家を犠牲にして(略)巨大な利益を得ていたかがわかる。彼らは、投機マニヤを助成していた。そしてこれこそが、アメリカの経済システムを苦しめたのであった。(略)有力な銀行家は、高圧的な売り方で軽率な人びとに株や証券を投げ売りし、彼らはその利益のために奉仕しているのだといいながら(略)株主を犠牲にして、自身の銀行の証券を何百万となく売買していたのである。また、新株の発行は、内部の者に豊かな実りをもたらすように仕組まれていた。こうしたうま味を味わう機会が、政治的勢力をもつ紳士方にどうのように提供されていたか、がわかったのである。金融力の現代的機関ともいうべき持株会社が、いかに設立の発起人に濫用されていたか。(略)その構造が非常に複雑になったために、無節操な人間によっていかに簡単に横領されたことか。そしてたいへん不安定であるために、いかに多くが不況時代につぶれてしまったことか。

軍需産業と中立法

1935年には、1917年のアメリカ人の決断を慨嘆すべき悲劇と表現したウォルター・ミルの『戦争への道』が知識人に影響を与え、ベストセラーになった。さまざまな本や雑誌の記事が、戦争を誘発する際に軍需品メーカーが果した役割をあばき、センセーショナルな関心を集めていた。同じころ、上院のナイ委員会が、1915年以来、アメリカの武器製造業者が得た途方もない利益を明らかにし、軍需品商人が海外で得た大量の取引を摘発した。
(略)
こうしたきわめて孤立主義的な心理状態のなかで、1935年、人びとは中立法の議会通過を歓迎した。この法律は、いつ、いかなる場所で戦争が起きようとも、アメリカ国民は交戦国のいずれにも武器を売ってはならないということを定めたものである。中立法はこのとき直ちに、イタリア・エチオピア紛争に適用された。

ちなみにこの本が出版されたのは1939年

まもなく、日本が中国に進攻したさいにも、政府はあれやこれやと方針をぐらつかせた。初めは在留アメリカ人すべてに引揚げをよびかけ、残る者はそれぞれ自分の責任で残るようにと通達した。が、やがて中国在留アメリカ人を擁護するよう提唱するようになり、結局のところ、中立法はまったく適用されないことになった。彼らは法の抜け穴を使って、こうした政策をとることができたのだ。1937年、中立法はまた改訂承認されて、軍需品輸送の禁止命令は、宣戦布告がおこなわれた場合か、大統領が戦争状態にあることを″認めた”場合にのみ有効であることが規定されている。日本軍は全力を挙げて中国を激しく攻撃していたが、日本も、そして中国も、宣戦布告をしていない---だから大統領は、戦争状態であると”認める”ことができなかったのである。