シンス・イエスタデイ

シンス・イエスタデイ―1930年代・アメリカ (ちくま文庫)

シンス・イエスタデイ―1930年代・アメリカ (ちくま文庫)

1929年。

そして、10月24日木曜日がきた……。木曜日のこの朝、怒濤のように、信じられないほどの売り株が殺到した。そのなかのどれほどの株がカラ売りだったかは、統計記録の合計がないのでわからないが、明らかに量はそう多くない。(略)売り株の大部分は確実に強制された売りであった。市場は信用貸しによって、蜂の巣のように穴だらけになっており、相場の下落のために利ザヤを失った株相場師が自動的に売りつくしたことで、あのみごとに組立てられた株式組織は、いまや株価構造を崩壊させるための組織と化していた。

”景気はそこの街角まで来ている”

1929年から30年にかけての冬のあいだに、株式市場は急速に独力で回復しはじめた。やがて、かつてのビジネス・ゲームがまた続行することになった。少なくとも資金の半分は無傷だった共同資金操作グループが、ふたたび株を動かそうとしていた。大小の投機業者たちは彼らがひっかかったのは、景気循環の下降現象にすぎず、″底″はすでに終わって、繁栄という名の楽隊車がまた動きはじめていると考えて、損害の埋め合わせにとりかかっていた。株価ははね上り、出来高は1929年と同じくらい大量になって、いわば小型強気市場とでもいうべき状態が進行していた。(略)
小型強気市場の絶頂期でさえも、街には無料食料の配給を待つ人の列ができていた。(略)四月に、景気指標はふたたび下降に転じ、株式市場も同様に下降した。五月、六月と、市場は情容赦なく暴落した。が、フーヴァーはその顔に凄味のある微笑をはりつけたまま、「われわれは最悪の時期を通過した。努力を続けていくならば、回復は速やかにやってくる」と言明して、秋までに実業界は正常にもどるであろうと予告した---まさに、その秋にこそ、長い、過酷な、胸も潰れるようなアメリカ経済界の下降がもう一度始まったのである。

不況の実感

1932年まで、中西部の代表的小都市”ミドルタウン”の実業家にとって「不況とは、主として、新聞を読んで知る程度のこと」だった---にもかかわらず、1930年には都市の三流以下の工場労働者はいずれも失業の憂き目に会っていた。国全体としては、ほとんどの管理職はまだ無傷のままだったし、配当金も実質上、1929年同様の高額だった。経済界を吹き荒れる嵐の長期継続を予測した者はほとんどいない。高額所得者の多くは、新聞記事としては読んでいても、失業問題の目に見える兆候を感じとってはいなかった。

1931年春、ヨーロッパ経済は麻痺状態に

ふり返ってみると、皮肉なことに、経済麻痺をこれほどまでに深刻化させたのは、ドイツの一部とオーストリアとをある限られた経済目的のために---関税同盟をつくるために---結合しようと試みたこと〔独墺関税同盟案〕と、そうした企図にたいするフランスの猛反対であった。ドイツとオーストリアが結合され、強化されそうになると、何事にもフランスの激しい非難が浴びせられる。フランスはそのころ、中央ヨーロッパが破産の危機に瀕しているということをほとんど認識していなかった。

フーヴァー・モラトリアム

そのころアメリカ人はヨーロッパ財政がいかに危機的逼迫をつげているかということに、ほとんど気がついていなかったが、1931年の5月6日、駐独アメリカ大使はホワイトハウスでフーヴァー大統領と夕食を共にしていた。ヨーロッパの経済崩壊が、アメリカに重大な影響を及ぼす結果になることをおそれていた大統領は、この会談の日から胸中ひそかに国際モラトリアム案を練っていた---このモラトリアム案とは、ドイツに課せられた賠償とヨーロッパの連合国がアメリカに支払うべき戦債とを含めて、各国政府の負債金支払を一年間延期するという考えである。

テクノクラシーが突如ブームで、ふかしの山さんもビックリ。

この熱狂に誰よりも面喰らったのは、テクノクラシー思想の当の生みの親ハワード・スコットだった。彼は風変りで傲慢ででたらめなところのある若者で、本人は技術者としてかなりの経歴をもっていると自称していたが、実際のところは、ささやかなペンキと床塗ワックスの販売業を営んでいた。彼は数年のあいだ、グリニッチ・ビレッジのミーティング・プレイスやヴァンス・プレイスその他のもぐり酒場やレストランで、みんなをひきとめては長話をし、奇妙な経済理論を説明してきかせていた。が、これに耳を傾ける聴き手はいなかった。しかし不況が、一般的な経済の正論を敗退させてしまうと、異論もさほど馬鹿げたものではないようにみえてきた。(略)そのうちに『リビング・エイジ』誌がテクノクラシーについての記事を掲載し、そしてやがて、突如として---1932年12月に---新聞紙上にも、雑誌にも、説教にも、ラジオ俳優のギャグのなかにも、街角で交わされる会話にまでこのテクノクラシー理論がとり入れられ、いたるところに知れわたった。(略)
スコットの理論は、ヴェブレンとソディの著作から一部分を発展させたもので、かなり難解な観念を基礎としていた。スコットは次のように論じている。われわれの経済システムにとっては、逡巡したり速度を落したりすることは必要でない。尨大な科学技術的進歩と機械力がもつ大きな可能性は未曾有の繁栄に根拠を与える(以下略)
[ニューディール政策が登場するころには終息]

大規模な銀行恐慌が起ったら、暴動か革命になる恐れがあるんじゃないと言われてエドワード・S・ロビンソン教授は

「あえて予言をすると……銀行が閉鎖されたとき、人びとは救われたと感じるんじゃないですか。国民の休日のような感じになるでしょうね。みんなが興奮し、興味をもつでしょう。旅行を中止する者はいないし、ホテルも休業せず、誰もが、それが一時の楽しみだとまでは言わないにしても、大いにおもしろがるんじゃないですか」
銀行休業は間接的には、新たな操業短縮と一時解雇という新しい災難をもたらし、すでに打撃を受けていた人びとの苦しみをいっそう強めたが、ロビンソソ教授は本質的には正しかったのである。アメリカ人の大多数は、秘密をおおいかくしていた蓋が吹きとばされたような、一種の救いを感じていた。いまや一切が公表されたのだ。彼らは、厄介事は一時的なものだと感じていた。金がないことは、いまや恥ではなくなった---誰もが、金を持っていないように見えた。全員が救命ボートにのっているのだ。そして彼らは、お互いの苦難に対して、親身に応対し合った。食料品店ではツケがきくようになった(他に何ができただろうか)。たいていのホテルは、小切手をありがたく頂戴した。商店はかけ売りを快く引受けた。
(略)
アメリカの預金の10%以上は、3月15日以降もいぜんとして封鎖状態におかれていて、国家の経済機構は部分的にだが、機能を停止していた。しかし全体としてみると、銀行再開は非常な成功だった。信用は急速に回復した。国民は、自分たちを信用して、自分たちに行動また行動という考えを植えつけた大統領に魅了され、説得されていたからである。ニューディールは、こうして輝かしいスタートを切った。

明日につづく。