奇妙な情熱にかられて

春日武彦の話のオチ(論旨?)とかにはあまり興味はないのだが紹介する小説はやたら面白そうだったりする。青少年の読書欲向上には論理でガチガチの文芸評論家より有効なんじゃないだろうか。

人魚とビスケット (創元推理文庫)

人魚とビスケット (創元推理文庫)

少し前の文学界で『人魚とビスケット』を紹介していて、実際にあった新聞広告を元に書かれた長編なのだが

人魚へ。とうとう帰り着いた。連絡を待つ。ビスケットより。

人魚へ。あなたを探し出すために、あの十四週間とナンバー4の物語を出版することにした。ビスケットより。

ビスケットへ。九年たった今も、三人の盟約は断じて生きている。ブルドッグより。

[さらにやりとりは続いたが]広告は十一週間で呆気なく終りを告げてしまう。好奇心に飢えたデイリー・テレグラフの読者たちは、雲を掴む気分のまま尻切れとんぼの状態にさせられてしまった。長篇小説の出だしとしては、まことに読者の心を掴んで離さないスタートである。

うーん、確かに小説を読まない者でも読みたくなる。

「健康なミニチュア、不健康なミニチュア」という題目で、洋酒のミニボトルは不健康というネタふりがあって

逸脱した情熱だとか子供じみたロマンティシズム、さもなければ奇矯な明晰さといった過剰な要素が欠落しているのだから。すなわちミニチュア瓶とは「本物」が凝縮されたものではなくて、たんなる規格品として作り出されているだけだからである。(略)
自虐的かつ屈折したユーモアの発露であるといった但し書きがない限り、黙々と洋酒のミニチュア瓶をコレクションすることには、その対象が俗っぽさに加えて虚構と実用性(!)との中間的な性格を帯びているといった点において、淫らな写真を蒐集する行為に相似しているかのように感じられてしまうからである。あえて言い切ってしまうならば、ミニチュア瓶はどこか「いかがわしい」のである。

伝言ゲーム (モダン・ノヴェラ)

伝言ゲーム (モダン・ノヴェラ)

『伝言ゲーム』(Chinese Whispers)が紹介される。
アイルランドの暗い森にある精神病院の看護士ケニーが語り手であり、彼はミニチュア瓶を蒐集している。

ケニーにとって、患者グループのメンバーたちは、彼が集めているミニチュア瓶と同じような「珍奇なコレクション」であった。(略)
しかし平穏な日々はいつまでも続かない。ある日、ケニーのグループは新入りの患者を迎えることになった。(略)
[精神異常の殺人犯ガヴィンが]病状が軽快したからとケニーの治療グループヘと回されてくることになったのである。「伝言ゲーム」の大好きな患者たちが集うグループヘ。
[やがてガヴィンは患者たちを掌握していく]
患者たちから見放されていくケニーは、ガヴィンを憎む。無理もない、いつの間にかグループはガヴィンに乗っ取られたも同然であったのだから。「珍奇なコレクション」を奪われ、ケニーの繊細な精神は日増しに安定を失っていった。追い打ちをかけるように、奇怪な事件までが生ずるに至った。ある晩、トレーラーハウスで眠っていると、地震でも起きたような振動が襲ってきた。ケニーの大切でささやかな宝物が、激しい揺れによって床に落下した。写真や雑誌や食器が落ち、あの洋酒のミニチュア瓶コレクションも棚から床へぶち撒かれた。割れた瓶からはアルコールの強い香りが漂ってくる。いったい何が起きているのか?

では、健康なミニチュアとは。著者が小学生のとき同級生が質素な自宅の模型をつくった。

ただし台座にレイアウトされていたのが家だけではなかったところが、この話のポイントである。
模型の家の脇には、これまた縮減された一本の電柱が寄り添うようにして立っていたのである。(略)電線を支える碍子はマッチの頭を切り取り、それを白く塗って表現していた。
電柱は一本だけだったので空中に張られた架線は省略していたけれど、彼は電柱から家へと電線が引き込まれる部分だけは、細いエナメル線を使って作り上げていた。誰もが感心したのは、模型の家の出来ばえもさることながら、その家と電柱とが電線でつながっている部分のリアリティーなのであった。ああ、こんな具合にして電気は電柱から家へと引き込まれて電球が灯ったりテレビが映ったり扇風機が回ったりするのだなあと、そんな当たり前のことが模型の形で見せられることによって、まぎれもなく「かけがいのない」営みであるように実感された。(略)
それはおそらく、多木浩二の言葉を借りるならば「縮減は漠然と経験している等身大の世界では知覚しにくかったことを、非常に明確なかたちで、構造として感じとらせる」といったことに該当するのだろう。K君の作り上げた家の模型(そして電柱)は、まさに健康なミニチュアとでも称すべきものであり、わたしのみならず多くの級友たちの心に小さな驚異を刻みつけたのであった。

ヴァルザーの小さな世界 (筑摩叢書)

ヴァルザーの小さな世界 (筑摩叢書)

上記の本に所収の『列車の中のアヴァンチュール』は原稿用紙三枚の小品。

ある駅で停車すると、美しくにこやかな婦人が「ぼく」のコンパートメントに入ってくる。すると二人は微笑を交わしあい、たちまち接吻と抱擁そして愛撫が始まる。「ぼくたち二人は、まるで天国に住む人間同士のようにひしと抱き合っていた。さきほどまでの別人同士とは打ってかわって、今ではただ一つの想いに耽っている人間同士のように、頬と頬を寄せあい、身体と身体をぴったりつけあって、抱き合っていた」。
で、そのあとどうなったか?「しかし今、汽車は停まった。このきわまりなく魅力的な婦人は降りて行き、ぼくは旅をつづけなければならなかった」。
これでおしまいなのである。(略)
ヴァルザーは晩年の27年間を精神療養所で暮らしている。統合失調症であったという。そうした事実が「狂気の作品」といった形では結実せずに、むしろ無防備さとか愛や平穏さへの希求といったベクトルで現れたところに独特の価値が生じているように思われる。

ではなぜヴァルザーは、そんな解読不能の極小文字で作品を書きつづけねばならなかったのか。スイスの現代作家ユルク・アマンが『ローベルト・ヴァルザーの狂気、あるいは不意の沈黙』という題の小説仕立ての伝記を書いていて(1978)、その中にこんな箇所がある。

「ヴァルザーさん、その紙きれの上に何を書いているのですか。いったい読めるのですか」。彼は私を不審そうに見つめました、「読むですって? どうして読む必要がありましょう。いったん書いたんだから、中身は自分には分っています」。どうしてそんなに小さく書くのかとたずねると、彼は答えました、「大きな文字は、誰かを当てにした大袈裟な文字は、書きたくありませんからね」。

ローラーボール (ハヤカワ文庫NV)

ローラーボール (ハヤカワ文庫NV)

上記所収の『涅槃と神々の黄昏と砲丸投げ

さてひたすら純粋で不器用で孤独な巨漢であるトビーは、この七年間、記録に伸び悩んでいた。世界記録に1フィートばかり足らないところで低迷していたのである。そして彼は、おそらく気が狂いつつあった。
トビーが現実から遊離しはじめた徴候のひとつは、誰にも見られず自分一人だけで投擲したときに限って、途方もない世界記録が出てしまうことであった。あるいは禅の精神統一についておかしな考えにのめり込んだことであった。きちんと記録をする者が傍らにいると、なぜか彼の投擲は遠くへ飛ばない。凡庸な飛距離しか得られない。トビーの競技人生は、現実と相容れなくなりつつあった。そんな彼の様子が、妙に掴み所のない文体で綴られていく。