物語世界における絵画的領域

彼女たちが雛で行う「ごっこ遊び」は、現実世界の生身の男女の模倣戯では決してなく、むしろ虚構の物語空間に自己を埋没させ、あたかも虚構空間に自らが生きているかのような実感をもたらすものなのである。

ペラッとめくった時に興味を引く箇所があったから借りるわけですが、飛ばし読みの場合たいていけっきょくソコを引用するだけになって、それなら一分で済んだのに毎度思う、とかいい加減なことを書いている槍投げな日々。

物語世界における絵画的領域―平安文学の表現方法

物語世界における絵画的領域―平安文学の表現方法

垣間見る

当時の物語絵の定番の構図であった垣間見の場面を想起してみると(略)先ず透垣などの物陰に佇む男に視点を据えてみれば、彼と共に胸の高まりを感じつつ女を一心に眺め入る気分になり、また女の側に同化密着すれば、見られていることを知らないゆえにくつろいだ状態にあることが感受される。そして絵の全体を眺め渡すと、そこには垣間見る者の興奮と、見られる側の日常的平穏さが共存する独特な雰囲気があり、鑑賞者はやがて展開する恋の予感を覚えつつ双方を秘密裡に覗き見るスリルを昧わうのである。

「吹抜屋台」の構図

斜め上方から家屋の中を見通すように描く俯瞰描写において障害となる屋根や天井、壁を大胆にも取り除いた「吹抜屋台」の構図は(略)日本絵画の独特な表現法である(略)清水好子氏は前掲論文で「この構図が流行し出したのは、室内と室外を同時に描くため、つまり、室外にあって女を訪れる男だけでなしに、部屋の奥深くにある女の姿を描くため、つまり物語絵を描くために発達したのではないか」と述べている。

モテるのはいいけど、女ってギスギスしてんだよなあと思う光源氏は美少女を手元で育ててギスギスしない男と女の関係に持ち込もうと画策。
「雛遊び」

「源氏の君」と称する人形を作り、衣裳を着せ、またその姿を絵に描く。「光源氏」は若紫にとって美しい貴公子を代表する仮想的人間であり、それが絵に描かれ、また雛という形でミニチュア化されることによって、彼女の遊びのイメージを膨らませる玩具となる。「光源氏」は若紫の手の内にあり、いつでも彼女と身近に向き合う存在となっていくのである。
(略)
この時藤壷、葵の上、六条御息所といった年上の女性たちとの関係が逼塞状態にあった源氏にとって、若紫との無邪気な関わりが、この上もない安らぎをもたらしていたのである。(略)
この時期の両者は近い将来男君女君の関係になることを予想させつつも、現状においては源氏は娘を養育する父親のような立場で若紫に接している。紫の上の少女期に繰り返し描かれる雛遊びの模様は、単なる幼児性の表出ばかりではないだろう。親子のような紐帯を強めてゆくことが結婚への道程となるこの二人の特殊性に、「雛」という遊具が持つ独自性、及びその独自性を背景に展開する〈雛遊び〉というものがいかに結合されていくのかが読み解かれてゆくべきだと思われる。

(現代人の感覚で考えてよいのだろうかとも思うけど)

絵の鑑賞者は自らの人生や恋愛の体験による知識や当面の感情を盛り込み、物語と自己との関係性を強めてゆく。しかし、未だ恋愛体験のない少女にとって、描かれた素材を恣意的に組み合わせ、物語絵が放つメッセージを感受し、その後の展開をも想定しつつ物語と絵を咀嚼することは、そう容易になし得ることではない。少女には未だそういった思考を形成するだけの体験の蓄積がないからである。そのような幼い物語絵の鑑賞者にとって、絵と自己との間に雛を介在させ、物語の情況をロールプレイすることは、描かれた絵画が提示する内容を理解するために、視覚的にも心理的にも効果的であると思われる。男君を待つ、見送る、対座する、共に過ごす、装う、そういった行為の各々の意味を雛を動かしつつ、一連のあるストーリーの中でそれらを位置づけることによって、自らもその展開に参与している感覚を味わうのである。
そう考えるならば、彼女たちが雛で行う「ごっこ遊び」は、現実世界の生身の男女の模倣戯では決してなく、むしろ虚構の物語空間に自己を埋没させ、あたかも虚構空間に自らが生きているかのような実感をもたらすものなのである。物語絵の世界に働きかける雛遊びは、そこに描かれた理想的な男女像を立体的に可視化してゆく遊戯であったと言えよう。従って雛遊びにうち興ずる少女たちの思考や感情の発露は、現実の男女に対する見聞が前提にあって、それが雛遊びに向けられてゆくという性質のものではなく、雛や物語絵が織り成す特別な時空を先ず彼女たちが充分満喫することにこそ重点があり、そこで醸成された恋愛への憧れや関心が、やがて現実世界における対異性への対応に向けられてゆくというものなのである。

雛遊びを若紫と共にする源氏が、雛と共に物語絵を豊富に与え、自らも絵を描いたその行為の真意は、雛と絵の相乗効果によって現出された破綻のない幸福な男女の姿が、実際の彼らの関係へと移行し、若紫が源氏と共にする将来に明るい期待を抱いてゆくよう導くことにあったと考えられる。若紫が異性との関係において無垢である分、源氏はより周到にその「教育」を施さなければならないはずであり、またやがては問題となる異常な結婚形態も、両者の心理的側面においては何の障害もなく、その始発からごく自然な形で結ばれていったことを若紫に納得させなければならなかった。

検閲

源氏は自ら物語を「選りととのえ」、物語にまつわる絵画類もそれを描く絵師を選定し、絵画化する場面も入念に指定した。「戯れた」少年少女が登場する物語を阻止し、姫君と紫の上との継子関係にも配慮して「継母の腹ぎたなき昔物語」も排除した。このような例から推し測れば、別離、零落、夜離れ、レイプなど我が娘に体験させたくない物語の内容は当然切り捨てられたはずである。

女性はこういう恨み節をよく書いているが、男は男で別なプレッシャーを受けているわけで

性急に結論を導けば、大人たちが物語絵や雛遊びを通して姫君に期待し、イメージづけてゆくものは、美しい姫君が身分の高い貴公子に求愛され結婚する、というような男女の理想的な結びつきとその幸福な行く末ということに尽きるであろう。しかしながら、現実世界の人間関係に無垢であることが、幼少の姫君たちの特質であるとし、一方、もはや生身の人間の人生が平坦ではないことを体験的に知っている者が〈大人〉だとしたら、姫君教育という名のもとに、システマティックな体制を構築し、ひたすら翳りのない理想的な将来像を刷り込んでゆこうとする大人たちの行為そのものには、相当の屈折が存在すると言わねばならない。自らそうではないと思うことを、そうであって欲しいと強く願い、遊びの世界に特別な意味を付与し、期間を限定し、かつ意図的に働きかけてゆく。

他にも少しあるけど引用が長くなったのでこれで。