生物多様性という名の革命

女性解放運動って言うと偏見持たれるから性多様性革命って言い換えてみた風情。女性の抑圧ばかり強調しすぎて誤解を招いていた部分もあったので、もっと包括的な見地からと言うので、話を聞いてたら、結局お前らはセクハラ糾弾かっ、みたいな。
自然保護運動への偏見から逃れビジネスとして成立させるための企画書の題目が「生物多様性」なのでせうか。このもやもや感を爆発させるとジュラシック・パークの顛末じゃないとフト思ったと、いい加減な事を書いているように、いい加減に飛ばし読み。

生物多様性という名の革命

生物多様性という名の革命

絶滅種を保護するより、そういった種が生まれてくるプロセスを保護しようという話。
政治的に利用される絶滅種

一部の集団は、絶滅危惧種法が非難をほとんど受けることのない唯一の環境法であることを利用して、彼らが他の理由で反対している開発を阻止するために絶滅危惧種を探している。ありあまるほどの経済的理由と生態学的理由がテネシー州のテリコ・ダムの建設中止を支持していたとはいえ、法的な影響力を持っていたのはごく少数の、とりたてて魅力のない魚だけであった。

もし、地球全体で毎年絶滅していく種数についての生物学者たちの推定値が正確ならば、それを一種ずつ救おうというのは愚かな努力としかいえないだろう。(略)マルコム・ハンターは絶滅危惧種法を、「われわれの良心をいやす」だけの「感傷的な役者」と呼ぶ。エーリックは、ある種が絶滅危惧種のリストに載る時点には、その種はすでにその生態系での役割を十分にはたしてはいないだろうと指摘する---じっさいのところ、すでにいないも同然だというのである。

プロセスが大事

生物学者たちがほんとうに望んでいるのは、生息場所の保存であり、生態系の保存であり、進化のページェントが繰り広げられつづけることのできるような、まだあまり荒らされていない土地の保存である。(略)
絶滅危惧種は、変化しうる進化的な単位ではなく、静的な型と見られやすい。(略)変化しない種ではなくダイナミックなプロセスを保全するという転換によって、「生物学的な共同体がその進化ドラマを演じきる」ための潜在的な可能性が保持される。(略)
「プロセスの保存はその産物がなければできないとはいえ、人間が保存すべきは、たんなる形態学上の〈形〉(種)ではなく、〈形成されていく〉(種分化)プロセスなのだ」(略)
生物学者たちは進化プロセスに大きな価値をおく。生物多様性保全することによって、遺伝学、個体群、種、群集、生態系のすべてのレベルでの変異が保全される。その変異が進化プロセスの継続を可能にし、また自然が変化し、反響し、進化する能力を賦与する。

生態系は正確に定義できないし掴みが弱い

生態系に焦点をしぼることの問題点は、定義の困難さだけではない。ハンターは、生態系には「大衆にかわいいと思わせるような、大きな褐色の目がない」という。(略)ウッドラフは、「カリスマ性をそなえた大型脊椎動物あるいは少数の高等植物に焦点をあてたほうが、ずっと影響力を発揮できる」と考えている。

<自然>という用語を避ける理由

デヴィッド・ウッドラフ「(略)〈自然〉という言葉は、この国では1950年代から1960年代にかけて、かなりの汚名を科学共同体から着せられました。たとえば、科学者が人前で『私はナチュラリストです』とか、『科学の教授』ではなく『自然史の教授になりたい』ということは、自殺に等しいことでした。科学が、生物学という科学が、高度に還元主義的になって以来、〈自然〉という言葉はそれを実践する人々にとって、それを指導する人々にとって、呪われた言葉となりました。そして彼らは、それを避けて通るようになったのです。だから、自然史ではなく、行動生態学をやったわけですよ。それだって自然史なのですがね。(略)この言葉を使うときには、話している相手がどういう人なのか、とても気を使わなければなりません。そうでなければ、すぐさま軽薄な学者と書かれてしまうでしょう。木に抱きつく人とか、”主義者”とか、あるいは鳥やネコしか見えない人というわけです。そんなふうに見なされてしまったなら、どうにも身動きできないし、手足をもがれてしまったようなものでしょう。そのようなわけで私は、〈自然〉だとか〈自然史〉(という用語)の使用を避けてきました」。「結局のところは、〈自然〉か、あるいは〈生物多様性〉ですね。〈生物学的な〉多様性よりはましです。プロセスが含まれていますから」。

布教活動

生物多様性〉は、精力的な宣伝活動がなければ流行り言葉にはならなかった。うまく説明できればよいのだが、この宣伝は意図的なものであり、提案者とその支待者たちは、生物多様性の名の下に他人を改宗させる〈責任〉があり、そうするのが生物学者たることの一部だと感じている。
(略)
環境保護熱が60年代終わりに高まったとき、ほとんどの科学者は傍観者をきめこみ、ひとにぎりの仲間が大声で叫べば保全のメッセージは十分伝わると信じていた。しかしレオ・マルクスがこれを書いた後、環境主義への大衆の関心はいっときは高まったものの、やがて尻すぼみになるのを生物学者たちは目撃した。生物学者は、この潮流を逆転させようと、生物多様性の後ろにしっかり隊列を組んだ。

ためらう理由。時間とられるし、地位も危うくなるし、なんか政治的なことって苦手だし、専門外のところで発言したりするといい気になってると上司同僚に思われたりするしetc。それよりもあのナチュラリストの類と一緒にされるのがイヤ。

多くの科学者がいちばん悩むのは、何かを唱道すると科学者が大切にしてきた客観的観察者としての信用が傷つくか、ということだ。この客観性がわれわれを非科学者から区別してきた。

ローゼンは問題を正しく言い当てている。科学者が何か価値判断を下すときに利用する権威の源泉は、自分の職業は科学者だという意識なのである。(略)
ローゼン同様、科学が価値中立でないことをすんなり認める科学者は他にもいる。ところがそう表明する一方で、彼らはかならず境界作業もする。科学の持つこの見かけの弱点にもかかわらず、自分たちの制度の神聖さを維持しようとするのだ。アイスナーはこう宣言する。「科学が価値から中立だったためしはありません。それはたわごともいいところです。科学は科学的です。つまりですね、国家から援助を受けるということ、つまり、ある意味で、私たちがどんな種類の金を使うに値するかを国家が判断したということですよ。だが、その金を使うために黙していなければならないわけではありません。絶対に。(略)

当方は科学的に正確に発言しただけで、そのデータが大衆煽動に利用されてもそれは当方とは無関係という言い逃れ。

「科学を信頼するために必要なことは、バイアスがないということです。いいですか、価値とバイアスとは同じものではありません。まったく違うものです。言葉を換えて説明すれば、エド・ウィルソンやトム・ラヴジョイやピーター・レイヴンが熱帯雨林生物多様性が失われていると語るとき、人々は彼らが事実に基づく真実を言っているはずだと期待します。それこそ科学が社会に対して負っている責任なんです。科学的方法によって解明できる範囲で、物事をありのままに述べ、記述すること。それに続けて”私たちが森林を破壊しているのは大変なことです”と、誰かが言い出すか、それは別問題です。これは価値判断ですから。でも、正確であることとバイアスがないことは同じ次元です。バイアスとは無縁です」

微妙な分量だが、明日につづく。