カフェイン大全

トリビアな本なので、結局どのネタを選ぶかという話になって、禿しく飛ばし読み。
濃いコーヒー6杯でカフェイン1グラム。体重90キロの成人の摂取致死量は10〜15グラム。

カフェイン抽出のきっかけはゲーテ

ベラドンナのエキスを使って猫の瞳孔を自在に広げられる科学者がいるという話を聞いたゲーテは興奮し、その有能な学生を招待して実験を見せてもらいたいものだと言った。
ルンゲは、このときのために借りた山高帽と燕尾服を身につけ、ペットの猫を小脇に抱えて約束の場所に向かう。イェーナの商店街を歩いていると、仲間の学生たちは、何ごとかと目を見張った。(彼は、有毒な化学物質を研究していたために「毒」とあだ名されていた。)これから誰に会おうとしているのかを話すと、学生たちのからかいは畏敬に変わった、とルンゲは述懐している。
仲間が驚いたのも無理はない。全ヨーロッパでその名を知られた最初の文豪ゲーテは、1819年には、大陸でもっとも有名で人気の高い人物となって久しかった。(略)
彼は、依頼されたとおりベラドンナのエキスを猫の目に落とす実験を行なった。その劇的な反応に感動した老詩人は、ルンゲが帰ろうとすると机に手を伸ばし、珍しいアラビア・モカのコーヒ大豆が入った小箱を取り上げ、この豆の分析をやってみるようにすすめた。(略)
ゲーテのプレゼントに興奮したルンゲぱ、猫を置いたまま帰りそうになる。
「手下をお忘れですよ」と、かつて猫が錬金術師に仕える魔術的動物とされていたことをほのめかしながら、ゲーテはおどけて言った。
ルンゲは実験室に戻り、その後二、三ヵ月で純粋なカフェインの抽出に成功する。

2種類の「初めてのコーヒー」

はっきりしているのは、アラブの商人が栽培用にアフリカからコーヒーを持ち帰り、コーヒーの実から二種類の異なったカフェイン飲料をこしらえたことである。ひとつめは「キシル」という、乾燥させた果肉を浸して作る茶のような飲み物で、専門家によるとその味は、われわれの知るコーヒーとは似ても似つかず、むしろ香りのいい茶、スパイス入りの茶の感じだという。果肉を銀皮ごと煎って作るキシルは、イェメンでは美味な飲み物とされ、通に好まれていたらしい。もうひとつは、コーヒーの豆を砕いたりすりつぶしたりして作る濃い飲み物、「ブンヤ」で、その名は、エチオピアや初期のアラビアでコーヒ大豆を意味した「ブン」という語から派生している。おそらくは漉さずに、沈殿物と一緒に飲むもので、「泥水」という方があたっていそうに思われるが、この飲み方が何百年ものあいだ踏襲された。初期の「ブンヤ」は、生豆を煮て作っていた。その後、レヴァント地方の洗練された方法が伝わり、石の盆で豆を煎ってから水煮するようになる。煮汁を漉し、新しい水を加えてまた煮るという作業を何度か繰り返し、大きな粘土の壷にたまった滓を、コーヒーを小さなカップに注ぐとき一緒に入れる。煎った豆をすり鉢とすりこ木で粉状にし、沸騰した湯に混ぜるという方法もあった。できあがった飲み物は、何百年もの間、粉ごと全部飲んでいたのである。

1669年オスマン帝国よりの使者スレイマン

最高級地の宮殿風の建物に住んでパリの社交界を仰天させた。空気を人工的に調節し、東方の都市でも使っているというバラの香りを漂わせているとか、屋内にペルシア風の噴水がたくさんあるとか、たいそうな噂が広まった。貴族の夫人たちは驚異と好奇心のおもむくままに、またおそらくはこの階級特有の倦怠にも促されて招待に応じ、スレイマンの門をくぐった。薄暗い照明の、椅子のない部屋に案内されてみると、壁面はつやつやのタイル、床には暗い色調の精巧きわまる絨毯というありさま。クッションに寄りかかってくつろぐように勧められると、若いヌビア人の奴隷がダマスク織りのナプキンと小さな磁器の茶碗を運んでくる。こうしてご婦人方はいち早く魔術的な苦い飲み物を試みたわけで、それがまもなくフランス中に「カフェ」として知れ渡るのである。
(略)
トルコ・コーヒーは、何度も煮出したものをコーヒーかすごと飲むという「死ぬほど強烈なもの」で、かつてないほどの濃さだったのである。必然的に婦人たちは、カフェインの刺激ではずみのついた言葉をぺらぺらしゃべり、くすくす笑い、噂話を始めた。
(略)
おかげでその内情や戦略を知ることができた。すなわち、太陽王はただ旧敵オーストリアのレオポルト1世に不安を与えるためにトルコを使ったにすぎず、たとえば次のウィーン包囲にスルタンに援軍を送ってくれるだろうというような目算は立てられないとの結論に達したのである。

ビールスープ。酔いどれ文明さようなら、覚醒革命。

シヴェルブシュは、17世紀の典型的イギリス人家庭では毎日子どもを含めてひとりあたり約3リットルのビールを消費しており、ビールづくりは主婦の日常の仕事の一部だった述べている。消費がそれほど多い理由のひとつは、朝食が一般にビールスープだったということにある。一杯ためしてみたいと思われるなら、18世紀末ドイツの田舎に残されたレシピを見ていただきたい。
ビールを鍋に注ぎ、熱くなるまで火にかける。そのあと、別の鍋に卵を数個割り入れ、そこにバターを一片加えて、少量の冷たいビールを注ぎ、よくかき混ぜる。これに、先程のビールを注ぎ入れ、塩を少々加え、それからねっとりするまでよく攪拌する。最後に、ゼンメルか白パン、あるいは別の種類の良質のパンを切り、スープをその上に盛りつけて出来上がり。好みによっては、砂糖を加えて甘味にしてもよい。
くる日もくる日もこんな料理で一日が始まり、しばしば飲み比ベコンテストがあって、途中で競技者がひとりまたひとりと人事不省に陥り、ついに「饗宴」におけるソクラテスのように最後に残った者が酔った頭で勝利を意識しつつ立ち上がり家路に向かうというこの時代。まず紛れもないアルコール障害の症状が蔓延していた。

17世紀のティモシー・リアリー

1655年に、オックスフォードの学生とフェローのグループが地元の薬剤師アーサー・ティリヤードをたきつけて---ちなみにアンソニー・ウッドは彼を薬剤師で「ガチガチの王党派」だと言っている---オール・ソウルズ・カレッジのためにコーヒーを用意し公に販売させた。科学者と学生の非公式な協会だったこのオックスフォード・コーヒー・クラブこそ王立協会の始まりで、急速に世界的な科学者の協会に成長し、今日なおその地位を保っている。その学者仲間は、LSDの実験を行なったハーヴァード大学の教授ティモシー・リアリーと一脈通ずるところがあって、国じゅうで誰も見たことのない新種の強力な薬物を面白半分で試していた。現存する記録によれば、当時のコーヒーは何度も沸かしなおして沈殿物の多くなったもので、その味わいを楽しんだのではなく、もっぱらその薬理効果を期待して飲んだことが確認される。

コールリッジのコーヒーレシピ

1802年12月の日記から

卵半個分の白身。卵を泡立てたのち、1カップのぬるま湯---どんなコーヒーでも、湿らせるのに十分な量の水。次に挽いたコーヒーを入れる(山盛り一杯のコーヒーに沸騰したお湯6カップを注ぐ)。そのコーヒーと泡立てた白身とをぬるま湯でかきまぜる。できたものをコーヒー沸かし器に入れ沸騰した湯を6対1の割合で加える。強火にかけ二、三度沸騰させる。その後、茶こしを通して磁器あるいは銀のコーヒーポットに入れる。沸騰したあと静かに注ぐ。二度目は熱湯ではなく上澄みを使う。

こうした手引きに示されているように、少なくとも19世紀の初めまで、何度も煮出したトルコ風のコーヒーが好まれた。こういう体に震えがくるぐらい強い淹れ方がイギリスで依然として流行していた。卵は、ウォラーの中国のお茶のレシピに見られるとおり、イギリスのコーヒーと茶にたびたび侵入してきていたようである。ロマン派の詩人の生活には茶も入ってきた。コールリッジは、少なくとも数種類の茶を使っていたようで、その値段が高くなったことをくだくだと詩にしている。正餐には「脂肪の少ない羊肉とおいしい茶」をよしとした。

水代わりのコーヒー

20世紀になる前に飲まれていた大方の飲料が文明の進んだ国でもどれくらい危険だったか、今日把握することは難しい。きれいな水が不足していたために、アルコール飲料でさえまず第一に渇きを癒すものと考えられていた。イギリスでは1805年以降、水供給会社への投資を増やしたにもかかわらず、水から感染する病気の発生は、以後数年にわたって何回かスキャンダルをを引き起こした。1820年代にはロンドン市民が飲み水を見つけるのがむずかしくなり、そのために新しい職業が生まれた。水運搬人である。ロンドンの病院は患者にアルコール飲料しか提供しなかったが、それは用心のなせる業だった。1840年代に、ロンドンの貧困地区にどう見ても人間が飲むには適しない水が供給されたのは、公然の秘密だった。1850年代には、自家用の水道は依然としてわずかで、市に公共用のポンプはないも同然だった。そのころは上流家庭でさえ主水源からの供給は間欠的で、木造管が鋼管に換えられて初めて水不足が緩和された。
他の飲み物の出所も決してよくはなかった。ミルクは新鮮なときでも危険で、品質はお粗末、混ぜ物までされていた。製造者の名がないまま都市に届く供給品は特にそうだった。加えてそういう粗悪なミルクはきわめて高価で、1850年頃には値段がビールの倍もした。イギリスでソーダ水が販売されたのはやっと1790年のこと。通行人の渇きを癒すパリ風のレモネード売りはまだ街を歩いてはいなかった。ロンドンの住民が、原料の水を深い井戸からポンプで汲み上げているアルコール飲料か、水が煮沸されているコーヒー、茶、チョコレートといった非アルコール飲料に頼ったのは賢明だった。