地中海への情熱

 地中海が与える霊感

地中海が与える霊感は尽きないものであり、南欧への旅がその通過儀礼だというわけだった。オリーブが栽培される地域への境界線でイギリス人旅行者が感じたのは、そこを越えるのは、海峡やライン河を越えるよりもっと意味が深いという意識だった。彼らは、南欧への入口で、神への賛美に似た経験をした。周辺から事物の中心にきたのであり、その思いは源、根源、本質、そして究極的なものへの愛着にあった。

ロンドン〜ローマ間

1840年頃までロンドン〜ローマ間は3〜4週間かかり、ローマ帝国時代と変わらない速度だった。

ペニンシュラ・アンド・オリエンタル社の蒸気船ではサザンプトンからアレクサンドリアまで17日間でいくことができた。1880年代初めにはそれが13日になった。だがそれまでに蒸気船は近代的旅行のシンボルの座を奪われてしまっていた。そのあいだの時期に、蒸気によって陸路に革命が起こり、何日、または何週間かかるかという距離も、何時間でいけるかと考えられるようになったのだ。エジプトにいくのに、フランスやイタリアを陸路で通り、ブリンディジで汽船に乗り換えるほうがより速くて快適な時代になったのだった。こうするとエジプトまで6日でいけた。(略)
1850年代半ばまでには、マルセイユまで鉄道が通り、旅行者がパリからリヨンやアヴィニヨンを通って南フランスまで18時間でいけるようになった。その後も鉄道は、コルニス沿いに東へ着々と伸びていったので、1869年までにモナコまで汽車で行けるようになった。それから一年のうちに、イタリア国境まで鉄道が開通した。[イタリア鉄道開通でロンドン〜ローマ間は55時間に]

旅行には目的が必要

ヴィクトリア時代のひとびとは、どこかに到着してしまうよりも、意図を持って旅していたほうがいいくらいだと思っていたようだ。これは、ひとびとが海外に出かけていること、それもそれが長いほど、疑わしく堕落的だと考えたからだ。イギリスを顧みないのは、家を顧みないのと同じだった。(略)
当時、旅行は軽々しくすべきものではなかった。正当な理由が必要であり、とくに南欧にいく場合はそうだった。気候がよくなるにつれ、道徳的には落ちていくと一般に考えられていたからである。

群集への恐怖

「庶民こそがイタリアの魅力だ」と、ハリエット・テイラーはかつてジョン・スチュアート・ミルに語った。「イギリスでは災いのもとであるのに」と付け加えながら。(略)
18世紀の楽観主義に反対し、それほど寛大には人間をみない文化気風の影響を受け、彼らは人間嫌いになって地中海にやって来た。(略)
「自然界で……むやみやたらに増えているものが私をぞっとさせる」とテニソンは打ちあけた。「熱帯林の成長ぶりから増えていく人間にいたるまで---ものすごい勢いで生まれてくる赤ん坊たち。」こうした恐怖のおののきが、ヴィクトリア時代の文学から響いてくる。科学が人間性を恐ろしい自然のプロセスの一部分とみなしていたので、庶民にたいする恐れはもはや不合理なものには思えなかった。

イギリスの19世紀は町と産業と民主主義の時代であり、これらのすべての特徴は、人間の特性に関して特別な要求をした。町は洗練された市民を必要とした。産業は訓練された労働者を。民主主義は教育を受けた有権者を。それゆえに、犯罪、飲酒、無学のような社会悪にたいする寛容さはますます減り、そうした社会悪にふける下層階級を見くだす傾向が増した。公民道徳を育てる環境とはちがい、ヴィクトリア時代の都市は、教育を受けた者と財産家が嫌悪と恐れを持ってじっと見入る、犯罪と破滅の場であった。そして、群集---こうした人口の込み合った都市の群集---は悪意の集まりとしてとくに恐れられた。

地中海の庶民への賛辞

ジョージ・ヘンリー・ルイスは、スペイン人たちが詮索好きでないので彼らのことが気に入った。「庶民でさえ、こちらが彼らの視線に気づいたとわかるとすぐに目をそらす」

ウィリアム・アーサー師は翌年、ミラノで聞かれた勝利の祝典を見て、群集が「秩序を守り、上機嫌でいることにたいへん感動した」。「完全な善良さ」が広まっていた。イタリア国会のための最初の総選挙の最中にボローニャで、アーサーはイギリスの群衆を恥じ入らせるような、イタリア人大衆の「完全な礼儀正しさ」に深く感心した。

多くの旅行者たちが地中海地方で見たものは、彼ら自身の社会の本質的な病気が、経済的な不平等ではなく文化的なそれであるということを確信させた。南の世界で、文化を共有することが階級間の対立を緩めることを、彼らは目のあたりにした。

男色三昧in地中海

労働者階級を相手とする貴族やブルジョワ階級の同性愛は、パブリック・スクールや大学のような上流階級の領分での同性愛よりも、いつもより深刻で危険とされた。(略)
社会がそれほどしっかりしたヒエラルキーを持たない地中海地方では、こうした階級にもとづくものの見方は存在しなかった。結果的に、裕福で教育のあるイギリス人が、若い従順な漁師、ゴンドラの船頭、赤帽、御者、少年、船員、通りにいる少年と関係を結び、その関係を続けていくことはたやすかった。南の世界の大きな町や港町では、このような親交は社会的に容認されていた。

審判の明確なしるし

ヴィクトリア時代の旅行者たちは、当時のエジプト、シリア、メソポタミアの多くの廃墟のなかに、聖書で約束された審判の明確なしるしを見いだした。

1837年、リンジー卿がアマンの谷を訪れ、ラクダの死骸の悪臭に満ちた空気に触れ、ラクダの糞で覆われた廃墟を見たとき、即座にエゼキエルの預言を思い浮かべた。その預言は「私は、ラバをラクダの寝床にし、アンモナイトをひとびとが身を横たえる場所にしよう、そうすれば、汝は私が神であることを知るであろう」というものである。

「世界中のどこにもこのような風景は見当たらない。ここは、自然というよりはむしろ幻想的なスケッチに似ている、すなわち、燃え残った丘のゆがんだ固まり、死海は溶けている鉛のように周りを囲み、太陽の光はあまりに垂直に注ぎ、影を作ることもないので、太陽の恵みを受けることもない」
「言いようもないほどいまわしく、荒涼とした風景」
「一度その風景を見たら、ひとはそれをけっして忘れることはできない。その思い出は罪悪感のようについてまわり、その地でなされた恐るべき行為にひとを結び付けてしまうかのようである」
「キリストが処刑された場所に、日暮時にたたずむと、赤い血に染まったような空が、尖塔と丸天井を真赤にするとき、なにかが起きそうな気がする。十字架に磔にされているのは、キリストではなく、パレスチナなのだ」

南方のキリスト教へのプロテスタントの偏見

ローマのイエズス会士についてのディケンズの有名な記述は、「並んで音もたてずにこそこそ歩く姿は黒猫のようだ」となっている。(略)「ローマの孤独な道具である暗く淋しい男たち、暗闇のなかを歩き、あらゆる人たちの行動をこっそり探る夜警」という記述は、ウィリアム・アーサーがローマで司祭たちの騎馬行列を見たときの評価であった。ヴァチカン宮殿の側近のひとびとについてのサラの記述では、司祭はグランギニョール風のグロテスクな人物として現れる。シャベルで掘っている死人のような一団、……青白い顔と絞首台行きのような人相……彼らの骨だらけのやせた手で目を覆いながら、なにかを囁いている」というものだ。もしもローマの司祭たちがその捉えがたさのために恐ろしい存在とするなら、ギリシャ正教の祭司たちは、無知であるために卑しむべき存在になる。

托鉢が許せない

托鉢の薦めは恥辱というためになる汚名を取り除いてしまい、身体強健な人たちにたいする慈善を奨励したのだ---この慈善についてチャールズ・キングズリーは、「迷信深い国々がいつも陥りがちな感傷的なだけの慈善……社会経済の法則を破るから……普遍的な善はもたらさない慈善」と分析した。この結果は、貧乏するのが当然のような者たちから、やり繰りの才能をなくしてしまい、労働力の供給を中断し、怠惰を助長する---なぜならばすべての修道士たちは怠け者であることは疑いないのだから。ケイトウ・ディキンソンは、トリノの電車内で陽気な修道士が隣に座ってきたとき、「鋤をかついで耕せ、太っちょの乞食野郎!」とつぶやいた。

英仏交通のススメ

マコーリは「交通機関の手段のあらゆる進歩は……国家と地方間の反感を取り去る傾向がある」と感動的に論じ、バックルは、人間の好戦的な精神を減らすには、神学者や道徳家たちによる数えきれないほど長年の説教よりも、鉄道と汽船のほうが役立ったとまで主張した。彼は「国民間の嫌悪を引き起こすあらゆる原因のなかで、無知はもっとも強力なのだ。あなたがたが接触の機会を増やせば、無知を除去することができて、嫌悪を減らすこともできる」と説明した。(略)
「敷設されるあらゆる新しい鉄道と、海峡を横切る新しい蒸気船は、地上のもっとも洗練された二つの国の富と関心を過去四十年間にわたって結んできた永続する平和を維持するための付加的な保障である」と主張した。