喧嘩両成敗の誕生・その2

前日のつづき。

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

 

間男を殺してもいいけど、同等に妻も殺せ

[室町幕府の]法曹官僚たちは、けっきょく、当時の「常識」を曲げて妻敵討をした者を処罰することはできなかった。しかし、かといって「殺害の科」を見逃し、被害者側の感情を無視することは、もうひとつの「常識」からもできなかった。結果、彼らが独創したのは、妻敵討をした者は一緒に姦通をした自分の妻も殺害するべきだ、そうすれば加害者側も一人の愛する人間を失ったことになり、被害の程度は対等になる、という驚くべきものだった。(略)
この幕府官僚たちの「意見」は、その後の類似事件を処理する際の「法式」として受け継がれ、なんと江戸幕府も300年間にわたり妻敵討に対する規範として、姦夫と姦婦二人の殺害を義務づけることになる。けっきょく、このときの室町幕府の判断は、形式上は明治時代になるまで、我が国で効力を持ち続けたのである。

解死人制とは

加害者側の集団から被害者側の集団に対して、「解死人(下死人・下手人)」とよばれる謝罪の意を表す人間を差し出すという紛争解決慣行である。本来なら、この解死人には、直接に手を下した犯人がなるべきもので、それを被害者側に送致するということは、他ならぬ、その人物の処刑を被害者側に委ねるという意味をもっていたらしい。しかし、すでに早くは平安時代から、解死人になる者は直接に手を下した犯人、その人ではなく、その犯人と同一の社会集団に属している者なら誰でも身代わりになって構わないというのが一般的な通念になっていた。また、解死人を引き渡された側もその解死人を処罰することはせず、原則的には解死人の顔を「見る」ことで名誉心を満たし解死人はそのまま解放されるべきものとされていた。
(略)
ここでも大事なのは被害者側の衡平感覚であった。つまり、解死人制は復讐を儀礼的なかたちに昇華させることで、その被害者側の衡平感覚を満たす役割を担っていたのである。

一歩踏み出して「本人切腹制」

室町幕府が自力救済を抑止するために採用した具体的な紛争処理原則が、以下に紹介する「本人切腹制」である。(略)
[その特徴三点]
一点めは、被害者が何人いたとしても、基本的には直接の原因をつくった「本人」を処罰する、という点である。そして二点めは、その「本人」に対する処罰は、室町殿が直接「本人」に執行するものではなく、あくまでその主人に対して命じる、という点。三点めとしては、最終的には主人の命をうけ「本人」が「自害」(切腹)させられる、という点、である。

刑罰として「切腹」が採用されたのは、

この室町幕府の本人切服制がその最初だった。もちろん自害行為としての「切腹」の存在はこれ以前にまでさかのぼるのだが、従来は自害の形態の一つだった「切腹」を喧嘩の当事者に処罰として科すようになったのは、室町幕府をもって元祖とする。(略)
喧嘩の当事者に対して、斬首などではなく、切腹という栄誉ある死があたえられていたという事実は、彼の主家や室町殿が彼らの尊厳を一定程度認めていたことをうかがわせる。(略)
沸騰状態にある紛争当事者やその帰属集団の怒りを鎮めるためには、室町殿とはいえ細心の注意が求められており、そのための窮余の一策が「切腹」だったのである。

たとえ非があっても喧嘩さえしなければ咎めないよ

一般に「喧嘩両成敗法」とよばれている、この条文で今川氏や蜂須賀氏らが最終目的としたのは、たんに喧嘩両成敗を実現することではない、という点である。(略)
喧嘩をしかけられても反撃せず、大名の法廷に訴え出ることが推奨されており、応戦せずに大名に訴え出た者に対しては、たとえその者に攻撃されるなりの理由があったとしても、その者を勝訴とする、という規定がなされている。(略)
つまり、大名たちの真の狙いは喧嘩両成敗を実現することなどにあったのではなく、あくまで喧嘩を未然に抑止し、トラブルがあった場合は大名の裁判権のもとに服させる、という点にこそあったのである。
実際、この条文の規定が現実に守られていたとするならば、ひとたび喧嘩をしてしまえば原則どおり双方ともが死罪になってしまうのに対して、相手側からの攻撃に耐えて大名のもとに訴え出さえすれば、たとえ喧嘩の原因が自分にあったとしても無条件で勝訴が約束されることになる。もちろん当時の人々の名誉意識を思えば、攻撃を受けても「目を塞ぎ耳を塞ぎ堪忍いたし」というのは、そう簡単なことではなかったはずだ。しかし、すこし冷静に考えれば、喧嘩をせずに大名に訴え出たほうが圧倒的に賢い選択であることは誰の目にも明らかだろう。まさに大名たちは、人々がそう考えて自力救済の選択肢を捨て、大名の法廷にまっすぐに向かうことを、この条文で企図していたのである。だから、極端なことを言えば、これらの分国法の条文を「喧嘩両成敗法」と総称してしまうのは、大名たちの真意からすれば、やや不正確な表現だったといえる。

理非がないがしろ

室町・戦国の人々にとっても両成敗はやはり過酷な措置で、無分別に採用することは決して許されることではなかったのである。
にもかかわらず豊臣政権には、しばしばそれを度を越して乱用する傾向があったことは否めない。さきにあげた事例だけを振り返ってみても、旧芦名領をめぐる両成敗処分については、秀吉は調停者の立場を利用して、まんまと旧芦名領を手に人れてしまっている。(略)
そもそも肥後国一揆の根本的な原因は秀吉政権が政策として強行しようとした太閤検地にあった。しかし、秀吉は自身を局外の調停者の立場におき、問題を「喧嘩」として処理することで、佐々に全責任を転嫁してしまったのである。
元来、喧嘩両成敗というのは、紛争当事者の衡平感覚に配慮しつつ緊急に秩序回復を図るために中世社会が生み出した究極の紛争解決策であった、しかし、そこには単純明快であるがゆえに、しばしば安易な運用で理非が蔑ろにされる危険がつねにつきまとった。

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