セイヴィング キャピタリズム・続

前日の続き。

セイヴィング キャピタリズム

セイヴィング キャピタリズム

日本における金融市場の消滅

日本では、大恐慌をきっかけとして、財閥系の大銀行が、彼らが19世紀末以来望んでいた銀行部門の統合へ突き進む機会を捉えた。その限りでは、日本はイタリアと似ている。イタリアとの主な違いは、既得権者たちの利害が、迫り来る戦争に向けて資源配分を有効に指導するために、少数者の手に金融システムを集中させたいという国家主義的政府の願望とうまく一致した点である。しかし政府介入の効果は、国家主義者たちの権力掌握よりも長統きし、優に1980年代にまで持続した。
第一次世界大戦以前、日本は強力な金融市場の構築に向けて足早に進んでいた。1918年までは、最低資本金についての要件を除けば、銀行業への参入制限はなかった。第一次世界大戦が始まった時点で、1000行以上の銀行が存在した。戦前には五大財閥銀行の預金のシェアは20.5%にすぎなかった。

1927年の銀行危機は、部分的には政治的策略によって惹起されたものであったが、これをきっかけに小銀行の意を汲む衆議院の抵抗を乗り越え、預金取扱い金融機関に五年以内に最低資本金100万円を満たすよう規定された。

このように、大銀行と政府の結託が、かつては競争的であった日本の銀行システムを、集中化した「メイン」バンク・システムヘ変容させた。
[1945年には67銀行に減少、五大財閥銀行は総貯金の45.7%を占めた]
[企業負債は銀行借入より社債の方が多かったのだが]
社債債務不履行が増加すると、銀行グループは経済状態の悪化を口実に、信託会社および保険会社と結託して、1931年に原則としてすべての社債を担保つきで発行することを取り決めた。このことは直ちに銀行の顧客企業の社債発行を困難にし、企業が資金調達において取引先銀行に依存する程度を高めた。大蔵省の認知を得て、この協定は、すでに見た1933年の起債会の設立を通じて公式のものとなった。銀行に企業の公募社債発行の権利を決める責任を与えるということは、鶏小屋に狐を放って、狐にどの鶏を外へ逃がすか決めさせるようなものである。繁栄していた社債市場の衰退がその結果であったことは明らかである。(略)1943年までに、負債の43%が銀行借入になり、社債はわずか6%になってしまった。

「起債会」は1980年代まで

1980年代前半の日本では、社債市場は取るに足らない規模であった。それは商業銀行がいわゆる「起債会」をコントロールしており、無担保社債の発行を望む企業は例外なくその許可をこの会に申請しなければならなかったためである。この仕組みが存在していた表面上の理由は、人々にとって安全な社債だけが発行されるように保障することであった。しかし「本当の」理由は、銀行が起債会を利用して自分たちの貸出業務を守ろうとしたことにあった。
(略)
ユーロ市場の拡大と1980年に日本で実施された国際資本移動の自由化が、銀行が長年にわたって企業を縛ってきた拘束をついに解き放った。日本の大企業は今や、国内銀行の脇をかいくぐってユーロ市場で資金を調達するようになった。(略)
結局、起債会は廃止されたが、それは政府や銀行が起債会を非効率なものと認めたからではない。国際間の競争が廃止を余儀なくさせたのである。

前日の疑問のつづき。競争に敗れた人々をどう救えばよいか。衰退業種を保護することは非効率企業に利益を与えるだけであり、雇用者を直接支援する形で税金を使うべきである。

驚くべきことは、鉄鋼労働者が獲得した支援のかたちである。職を失った労働者に直接補助を与える代わり、アメリカ政府は鉄鋼業のわずか9000人の職場を護るために関税を課したが、それは、ある研究によれば鉄鋼を消費する産業の74000人分の雇用に匹敵する費用を発生させている。この関税はさらにまた消費者に年間50億ドルの負担を負わせるであろう。
(略)
政治家は、なぜ創造的破壊のプロセスで被害を受けた個人を直接支援しないのであろうか。なぜ政治家は、直接の支援ではなく、創造的破壊プロセスに介入し、非効率的企業を保護し、それら企業に資源を与え、さらに将来一層の保護を要求するインセンティブを与えるのだろうか。結局のところ、アメリカにとっては、コストのかかる貿易制限を導入する代わりに、余剰の鉄鋼労働者を再教育し、それに加えてかなりの年金を与えるほうがはるかに安上がりであろう。

困窮者の救済が政治的に利用されることを防ぐには、事態の前に保障をデザインせよ

事態が起こった後で与えられる救済は、保障ではなくて、純粋な再分配である。そうであるがゆえに、それは人々の必要によって動員されるのではなく、関連する政党の政治力によって動員される。
(略)
したがって、危機の前に救済システムを用意しておくことのもっとも重要な利益の一つは、そのように準備しておけば、具体的に誰がどの程度の支援を得られるかがはっきりしていない(無知のヴェール)ことである。ほとんどの人々は、救済策の受益者になるか、それとも救済策のために支払いを引き受けなければならないのかを知らないであろう。その結果、彼らは救済策を特定の方向へゆがめようとする強いインセンティブを持たない。

「本当にホリエモンはそんなに悪いのか?」じゃないけど

事後的にはバブルを見分けるのは簡単である。しかしバブルの最中にあっては、事態は見分けがつけにくいのである。
破綻企業という死体を解剖する政治家が、そこに「スキャンダル」を発見するのは簡単である。いつだって、経営判断の過ちを発見することはできるものである。
(略)
正しくは不確実性や能力不足に帰されるべきことの多くが、経営者のよこしま心のせいにされる。しかし重要な点は、景気下降期に始まる政治的魔女狩りが、自由企業体制の正当性を一層毀損し、反市場主義の動きを助長するということである。
もちろん、業績悪化に直面した一部の企業家や金融業者たちの行動が、市場は市井の人々を騙すように使われているという感覚を作り出す。(略)
破滅に直面すると、経営者のなかにはその破滅から逃れるために、どのようなことにも、たとえそれが非合法なことであっても、手を出す者もいるだろう。しかし、そうした行動は無謀なギャンブルであるから、うまくはいかない。そして、その後の調査がその行動の違法性をあからさまにする。他の、完全に正直なビジネスさえもうさんくさい目で見られる。

自由な市場の敵は誰か

市場は自由になりすぎているわけではないし、おそらくは、自由になりすぎることなど不可能であろう。それどころか、市場は絶えず束縛を受け、抑圧されている。なぜならば、市場がよってたつ政治的基盤はきわめて脆弱だからである。(略)
資本家ですら、競争的システムを擁護することから利得を得ることはできない。実際は、彼らは競争から守ってほしいと絶えず政府に要求することで、しばしば資本主義の最悪の敵対者に変身するのだ。市場を支援する強固な政治的仕組みもなく、また既得権を持つ者たちからの圧力にさらされ続けているから、市場は常に制約されすぎているのであり、決して自由でありすぎることなどない。

今日、市場経済を基盤とする民主主義の最大の危機は、それが社会主義へ進んでいってしまうということではなく、リスクを削減するという名目の下に競争を抑制するリレーションシップ・システムに変貌してしまうことである。