不道徳教育

市場原理の働かない国家が諸悪の根源だ、世間から白眼視されている人々の方が市場原理に沿って正しく活動しており、国家公務員が市民の敵なのだ。

不道徳教育

不道徳教育

30年前の本をサクッと訳して、実に売れそうな内容で、しかも、はなくまゆうさくのイラストをあしらって、さらに売れそう。そんな「勝ち組」の訳者の長いまえがき。

すべての不幸は国家によって引き起こされている。国家が存在しなければ(国家間)戦争も貿易不均衡も起こらない。
(略)
国家は、徴税や徴兵によって個人の権利を不可避に侵害する。公務員は国家に寄生し、吸血鬼のごとくわれわれの血を啜っている。

リバタリアニズムというのは

ようするに次のような政治思想だ。
人は自由に生きるのがすばらしい。
これに対して、リベラリズムは若干の修正を加える。
人は自由に生きるのがすばらしい。しかし平等も大事である。
自由主義」に対抗する思想として保守主義が挙げられるが、それとても「自由」の価値を否定するわけではない。彼らは言う。
人は自由に生きるのがすばらしい。しかし伝統も大事である。
たったこれだけで、現代の政治思想の枠組みが説明できてしまった。

幸福のルール

人々が自由に生きればすべての人が幸福になる。
すべての人を幸福にする行為は道徳的である。
したがって、自由に生きることは道徳的である。

人生ってなんて簡単なんだろう!

言論の自由

私はプラバシー権や著作権を支持しているが、それでも「人が自由に生きるには”言論の自由を守る”と腹をくくるしかない」との著者の主張に、十分な理由があることを認めざるをえない。

援助しないでください

ジェームズ・シクワチによれば、たとえばケニアの一部で旱魃が発生すると、政府は大声で全世界に危機を告げる。その声は国連世界食糧計画に届き、やがて大量のトウモロコシが送られてくる。その援助物資は被災地には届かず、一部は政治家の選挙区に配られ、残りは闇市で叩き売られる。ただ同然の農産物が大量に流入することで、現地の農業は競争力を失って壊滅してしまう。
同様のことは、たとえば善意溢れるドイツの人々がアフリカに送る古着についても言える。援助物資として送られたドイツの中古ブランド品を闇市に買いに来るのはドイツ人で、彼らはそれをインターネットオークションでドイツの消費者に高値で転売するのだ。この馬鹿げた「援助」の影響で、ただでさえ貧弱なアフリカ諸国の軽工業は甚大なダメージを受けている。

リバタリアニズムの本質は

「自由な個人」という近代の虚構(というかウソ)を徹底する過激さにある。その無謀な試みの先に、国家なき世界という無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)のユートピアが蜃気楼のように浮かぶとき、人はそれを「希望」と呼ぶのかもしれない。

どうでしょうか、「幸福のルール」の辺り、ビミョーなのであるが、国家ならそのビミョーな部分をどうにかできるのか、国家でも市場原理でもビミョーな部分はどうにもならぬのだから市場原理でいいじゃないとなるのか。
とりあえず脱線・妄想を掻き立てる本ではある。
いよいよ、本文に行くのだが、訳者によって現代に日本の状況に合せた超訳になっています。
2ちゃんねらー擁護。誹謗中傷もまた言論の自由の一部なのである。

最後に、逆説的に言うならば、わたしたちの名声や評判は、誹謗中傷を禁じる法律がないほうが安全なのである。現在の法律は虚偽に基づく名誉毀損を禁じているが、そのことによって、だまされやすい大衆はゴシップ雑誌に書いてあることをすべて信じてしまうし、ネット上の匿名掲示板にしても、規制が厳しくなればなるほど投稿の信用度は上っていく。
「だって、ホントのことじゃなかったら書かないんでしょ」
もしも、誹謗中傷が合法化されれば、大衆はそう簡単に信じなくなるだろう。名声や評判を傷つける記事が洪水のように垂れ流されれば、どれが本当でどれがデタラメかわからなくなり、消費者団体や信用格付け会社のような民間組織が記事や投稿の信用度を調査するために設立されるかもしれない。

恐喝バンザイ。「真実が君を解放する」

しかし同性愛者全体の利益を考えるならば、恐喝による強制的なカミングアウトは、一般社会が同性愛者の存在を知り、共存する術を学ぶことを促す。
披差別者を公衆の面前で名指しすることや、クローゼットから引きずり出すことは、もちろん「善意」などではなく、個人の権利の侵害である。しかしそれでもなお、一般の人々に彼らの存在を気づかせることにつながる。そのことによって恐喝は、いわれなき差別に苦しむ人々を解放する功績の小さな一部を担うことになるのだ。
古い警句にあるように、「真実が君を解放する」。
恐喝者のただひとつの「武器」は真実である。脅しの材料として真実を用いるとき、彼の意図とは無関係に、それがよいか悪いかも別として、恐喝者は真実を解き放つのである。

「レイプ犯を極刑に!」

「人権」を錦の御旗のごとく振りかざす人々は、アダルトチルドレンなる珍妙な理屈を振り回してレイプ犯をずっと甘やかしてきた。(略)
それに比べて、フェミニストたちの「レイプ犯を極刑に!」という叫びがいかにさわやかな響きを持っていることか。
レイプ被害者に対する扱いを見てもわかるように、国家は女性に対する暴力行為を暗黙のうちに容認している。国家による女性差別はレイプだけでなく、売春の禁止にも表れている。

たとえばハリウッドの大手映画会社が女性差別を公言し、レイプを礼賛する作品を製作したとしよう。その会社は社会から強い非難を浴び、観客は背を向け、株価は暴落し、資金が枯渇してたちまち倒産の危機を迎えるだろう。だが差別が国家によって行われる場合は、このようなことは起こらない。

  • 脱線・俺の妄想1

著者のウォルター・ブロックによれば、モラルは不買というフィードバックによって規定されることになるはずなのだが、どうだろう。例えば盗撮ビデオ店にとっては世間の評判なんて全く無関係であって、盗撮ビデオを求める人間が存在すれば経営は成り立つ。
では、「盗撮」に憤る人々はどう対処するのか。ビデオ店を訪れる客を撮影したり、顧客情報を入手して、ネットで晒す。これで打撃を受けて客が減るのか、「盗撮」趣味をカミングアウトできて、世間に「盗撮」趣味が認知されるのか。盗撮者及びその家族を盗撮して晒すのか。
生徒を確実に大学合格させる能力はあるが、女性を盗撮する趣味のある教師に職はあるか。女子校・共学校は雇わないだろうが、男子校なら多分雇うところはあるだろう。もしかすると、減るもんじゃなし構わないという女子学生がいるかもしれない。それに憤る人々に手段はあるのか。

  • 脱線・俺の妄想2

でも公僕ということで優秀な人を安く雇えてるんじゃなかろうか。いや、その代償として意味のない天下り先が作られて無駄が増えているのか。

基本ルール
①自己所有と私有財産の権利は不可侵である(自己所有権私有財産権)。
②正当な所有者の合意を得ずに財産を取得することはできない(暴力の禁止)。
③正当な所有者との合意によって取得した財産は正当な私有財産である(交換と譲渡のルール)。
これは恐るべき思想である。なぜなら、たったこれだけのことで「人はいかに生きるべきか」という人類の根源的な問いが、もののみごとに解決してしまうからだ。

  • 脱線・俺の妄想3

すると信者に安物の壷を50万円で売るのは問題がない。騙されたとか言ってる元信者はバカなので放置。ヤクザが50万円の壷を売りにきたらどうなるのか。そこにある暗黙の暴力は暴力なのか。
命は一番大切な私有財産。生きていくためには背に腹はかえられぬので強盗に入る。それは当然上記のルールに抵触する、悪いのは強盗であるが、二人の人間の私有財産権の折り合いはどうつけるべきなのか。

おじいさんは手製のチーズをパンと交換しに麓の村へ行きました。でもパンの値段があがったと言われ(態度の悪さにも)怒ったおじいさんはさらに山を降りて遠くの村まで安いパンを求めて行きます。安いパンを買えた余裕で(いや遠くの大きな町だから飴が売っていたのです)ハイジのために飴を買います。市場原理バンザイ、かもしれない。でもてくてくと歩いて帰ってきたおじいさんの心を本当に癒してくれたのは、その日初めて吹けるようになったハイジの口笛でした。山々にこだまする二人の口笛、フー。
「市場原理」うんぬんについて説明不足なので、詳しくは明日に続く。