斯波四郎・芥川賞選評

芥川賞選評なんてものをちゃんと読んだことがないのでよくわからないのだが、なんだか物凄くヘンテコリンなものだった。きっかけは

文芸時評という感想 荒川洋治 - 本と奇妙な煙kingfish.hatenablog.com

上記でやった『文芸時評という感想』で荒川洋治さんが、芥川賞作家シリーズ『緑の島 斯波四郎』(1964)の日沼倫太郎の解説をしばしば読み返すと書いていたから借りてみたら、同時収録の選評がムチャクチャだったわけですよ。
とりあえず日沼解説の方を先に。
森敦に師事する小島信夫と斯波四郎の関係

この文章をよんでみると、小島氏と斯波氏の二人は、世に出るまでのあいだ、おたがいにライバル同士だったらしい。それを側面からあおりたてたのが森敦という人なので、「破れバイオリンが鳴りはじめた」という森氏の斯波評に小島氏が嫉妬心を抱いたり、小島氏の実力をみとめながらも彼のかく新作については知らぬ顔の半兵衛を斯波氏がきめこむといったこともあったらしい。しかし二人のバランスは、昭和29年下半期の芥川賞作家に小島氏がえらばれたときから決定的に崩れてくる。
(略)
森敦というメフィストフェレスを中心にくりひろげられる羨望と妬心のこの三角劇は、さながら菊池寛の「無名作家の日記」を私にほうふつさせる。斯波氏や森氏に先んじて芥川賞作家になったことを授賞式の席上で小島氏は誇り、斯波氏は先んじられたことのくやしさから借金を覚悟で同人誌の発刊を思い立つ。一方森氏は酒田へとじこもってしまう。(略)
はやいはなし、斯波氏が芥川賞を受賞したのは昭和34年である。小島氏よりは五年もおくれて世に出ている。それさえ僥倖だったかも知れぬのだ。だから五年おくれたということも、それはあくまでもあとになってからのはなしなので、当時の斯波氏としては、世に出られるか出られないかは、皆目見当がつかなったにちがいない。要するに、昭和34年の上半期芥川賞作家に選ばれるに至るまで、幾年かの歳月が、不遇な作家である斯波氏の上を確実に流れたのである。耐えがたい歳月だったろう。

とまあこんなカンジで、問題の芥川賞選評の方へ。
年譜から参考になりそうなとこをチョット抜粋
43歳 丹羽文雄門下となる
44歳 森敦に伴われ壇一雄の世話になる。小島芥川受賞。
45歳 借金して同人誌
47歳 井上靖に認められ以降深甚なる愛情を受ける
49歳 芥川賞受賞
さて問題の賞レース、井上靖が斯波四郎をゴリ押しするのですが。
斯波クンってブサオだけど、あんまりしつこいから根負けして許しちゃったの。爆笑部分を斜体にしてみました。

「斯波四郎のこと」丹羽文雄
[受賞してよかったねという前フリがあって]
彼はものに憑かれたように小説を書く。七十枚、百枚、百五十枚といった作品を、書き上げるしりから私のところに持ってきた。つみ重ねると、私の腰ほどの高さになった。彼は流行的な小説には、見向きもしなかった。ひたむきにおのれの世界に没入する型であり、そうした彼の原稿をよまされる私は、ほんとうのところ辛かった
私の文学とはまったく別のものであるからだ。彼の執念に私は圧倒された。一般性はないが、彼の才能は大切にしなければならないと思えた。一生陽の目をみることはないかも知れないと思っていた。「山塔」にも、かなりひとり合点のところがある。が、それを埋合わせするに十分な魅力がある。
ざっくばらんにいえば、この文学は真似ようのないものである。
こうした文学を最高のものだとは思っていないのだが、今日の文学者が見失っているものを、この作家は執念深く抱きつづけて来たようである

これはまだ素直

「精進された畸形」舟橋聖一
[各作品評、佃実夫「ある異邦人の死」を推したこと]
そこで、斯波四郎の受賞作だが、彼、柴田四郎の長く欝屈したものが、曽て一度も外側へ溢れ出ず、内向また内向して、手工芸風に凝結した一例である。
古風であるかと思えば、新しい。それが渾然としていると云っては、賞めすぎだ。むしろ、畸形である。
この人の病的なほど青い透明な垢と膩が、作品の中枢に固まっていて、ふしぎな感覚の艶になった。(略)
当夜の会では、井上(靖)氏が「山塔」にあまり力コブを入れるので、「異邦人の死」とは逆に、その分だけ減点したくなったのは事実だ。

この文章が一番ヘンだ。悪文だ。

「選後感」井伏鱒二
今度は作品が揃っていると思われたので選ぶのに迷った。力作という点では「三十六号室」に一票を入れたいが、報告的なところが気になるので迷わされた。個性があるという点では「山塔」に入れたいが、ところどころ表現に小さな無理があるので迷わされた。自分の嗜好から云えば「谿間にて」を挙げたいが、第二章以下が形の上で平板に終わっているので挙げかねた。結局、自分の嗜好をすて、「三十六号室」または「山塔」を推すことにして
(略)
但し「山塔」に文章の無理があると私が解したのは、人の使い古した言葉を避けようとして、それの度が過ぎているためかもわからない。一理ある試作態度であったとも思われる。

新聞報道に異議あり

「棄権」永井龍男
[どれかなら「三十六号室」だったけど棄権した]
授賞の翌日七月二十二日付「東京新聞」は、選考経過なる記事を掲載して、
「永井氏は『山塔』は小説としての構成が弱いと積極的反対を示したが、結局多数決で、『山塔』に決した」
と、報じている。
このような、無責任な報道は迷惑千万である。
予選八篇中から、候補作品を選ぶ際に、私が「積極的反対を示した」のは、「ある異邦人の死」であって、「山塔」に就ては「前半が脆いように感じたが」と述べただけである。(略)

これも笑える。バカボンのパパみたい。「みんな何故こんなものを選ぶのだ」と全否定なのに賛成なのだ。

「意外と賛成」川端康成
斯波四郎氏の「山塔」が選ばれたのは、私には意外であった、意外と言っても、反対という意味ではなく、私は「山塔」に同情を、さらにすすんで同感を寄せていた。しかし、委員の多くが「山塔」を推すだろうとは考えられなかったので、これは私の迂闊であった。「山塔」は私には、同感を誘う作品だけに、かえって欠点も目立つ作品であった。心の描き出した世界であろうが、その心の歌のわりに、風景はややぼんやりとし、風景の中の人物はさらにあいまいで、悪く言えば、この種の類型とも思え、全体に感傷がいちじるしい。けれども、純粋の心象に貫かれて、特異な魅力をこめている。このような作品が芥川賞に選ばれたことは私には意外であり、賛成であった。(略)

官僚作文調

「この独自の作風を」佐藤春夫
予選通過の作品を全部一読したうえで、わたくしは、北杜夫佃実夫、斯波四郎三君の作品を独自なまた第一流のものと信じながら、そのうちから第一位のものを決定するに困難を感じて、それは衆議によって決してもらうつもりで審査の席に出た。だからこの三篇には各々一票を投じ推賛の辞を惜しまなかった。
三君の作品は各々独自の作風の尊重すべきものでそれぞれに違ったものだから、これを比較して順位を定めることは不可能である。それにみなそれぞれに特長もあるが、無論欠点もある。しかもその欠点も、それぞれの作風に必然のものであってみれば是非もない。世に完全なものは稀である。(略)

よくわからない

北杜夫を推す」瀧井孝作
(略)
次は、斯波四郎の「山塔」これは、何か面白い所もあるが、何かよくわからない、作者のひとり合点のような所もあった。例えば、しまいの”山塔”というのも、象徴か何かよくわからないが・・・。この人の作は、前に同人雑誌に出たもので、奇妙な、象徴風の作があった。題は忘れたが、何でも、洞窟の中に神仙か化け物かふしぎな者共ばかりの世界が描かれた奇妙なもので、何か感じはあるが、とても不可解で、読み切れなかった。何かファンタジーともちがう、泉鏡花の化け物小説ともちがうが、この「山塔」にしても、よくわからないのは、未だ熟さない、こなれない、欠点もあると見た。ともかく、この人には妙な独自の何かがあると思った。何かがある点では好意をもつが・・・。

父さん、多分は宇野さんは北杜夫しか読んでないと思われ

「独断的選評」宇野浩二
こんどの委員会には、私は、どうしても出席できなかったが、候補作品として選ばれた八篇の小説は、委員会のある前の日までに、みんな読んでいた。それで、こんどは、先ず、それらの作品の読後感を、読んだ順に、我流に、述べることにしよう。北杜夫の『谿間にて』は、はじめ読んだ時は、ちょいと面白い小説ではあるが、この作者が以前に発表した幾つかの作品の中にはこれよりすぐれた小説があった、と思った。ところが、これを書くため、ふと思い出して、少し、念を入れて読んでみて、私は、この小説はなかなか『見所』のある作品だと考えた。[以降延々と『谿間にて』のあらすじ紹介]
以上の事を、自分ながら、過褒で、面白くないので、半分ぐらい縮めたり直したりするうちに、バカバカしい時間を浪費したために、肝心の書こうと思った事は殆んど述べられなかった。さて、ギリギリのメ切りの時間が、半日も過ぎ、今は「もう十分以上は待てない」という事になったので
(略)
最後に『山塔』が受賞したのは、「まず」と思うが、委員会の決定の時、六人の先生たちが同感され、僕のはかない一票をくわえると、『山塔』は七票という訳になり、「一票の中には半票になるのもあるが……」という妙な勘定の仕方もあるそうであるが、これは『異』な噂話というべきか。

石川達三中村光夫井上靖の選評はめんどくさくなったので省略。