文芸時評という感想 荒川洋治

文芸時評という感想

文芸時評という感想

サラサラ微温世代には説教オヤジ臭いのかもしれない。天敵?の保坂和志が言うように判断基準が古いのかもしれないが、自分がリコウなところを披露したくてたまらない渡部ナントカといった類の評論家より、自分の基準に従って率直に書いてる荒川洋治の方がずっとマシじゃない。

知的はだか祭り文芸評論家

先の二人の文章も、ほめるなんてことをしては男のこけんにかかわるという、なんだか男のはだか祭りみたいなものにならざるをえない。だから「ほめる」ときにはことばはやせほそり文章はがたがた、魅力がない。そういうものをみると男になれるなれないは別としても男になることをいそぐ必要はないような気がしてくる。

松浦寿輝の「須賀敦子」論

をこう分析する。「思ってもいないことを、平気で、それもじょうずに書いてしまう」

故人の資質を過不足なく伝える。言っていることはこまやか。いや、こまやかであることを印象づけるために、こまやかさを演じているという文章であるかも。(略)松浦氏はおそらくどんな作品に対してもこまやかな批評的対応のできる人。それも、もののみごとにできてしまう人のようだが、ほんとうにそう、自分で感じて書いたのかというと、文章のはしばしを見ると、どうもそうは思えないのである。思ってもいないことでも、平気で書くことができてしまう。そんな文章がいつもいつも書けるとしたら、それは実はおそろしいことでもある、ということを同氏はあまり意識したことがないのかもしれない。本当に思っていることを、うまく書けない文章のほうがときには文章としては上であることを、書き手はいつも知っておかなくてはならない。だいじなことだ。
「思ってもいないことを、平気で、それもじょうずに書いてしまう」。これが若手外国文学者のみならず今日の文筆家のひとつの特徴だろう。

町田康阿部和重

12年に亘る時評なので同じ作家でも評価は揺れるが、町田康はいつでも絶賛。「きれぎれ」の引用箇所も確かに読みたくなるナイスな選球。全編こんな調子だったら俺も読むんだけど。

「血がだらだら流れていた。まるで鎌のような草だ。鎌草。鎌草少将。少将くらいな気持ちで行かないと駄目だ。こんな指が切れたくらいのことは少将にとっては些事だ。俺は自分にそう言い聞かせ、指をくわえた」

阿部和重「トライアングルズ」の引用箇所もちょっぴり中原昌也テイストで、これまた読みたくなる。

<僕はそれほど立派な人間じゃない。残念ながらね。ならば実際はどうしているのかというと、いま君の家庭教師をしている通り、近頃はもっぱらアルバイトをしているよ。アルバイトばかりなんだ。僕のような人間にはね、それが一番ふさわしいんだよ!何がって、アルバイトがだよ!>

笙野頼子

笙野頼子に対しては文学内としては評価はできるけれど不満が残る著者。でも最初の頃よりは大分評価上昇。
まず「居場所もなかった」の方。

文章は達者だし、彼女の、たとえ人に笑われても自分の思考秩序を守るという腕も確かだし、こちらを苛立たせるだけ作品としては成功かもしれないが、彼女一人の主張(わがまま)につきあうにもほどがある。女性が希望の部屋を求めるには数々の困難があろうし、そこに今日の人間社会の仕組みがあぶりだされもしようが、「小説家」という存在がここまで誇らしげに自覚されている光景にでくわすと、「不毛なのは作家のうぬぼれ」という石原慎太郎氏の意見も具体性を帯びてくる。

それから二年後

笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」は東京湾にのぞむ鶴見線無人駅をなんの目的も目標もなくひと駅、ひと駅たどって歩く語。「私小説」もとうとう遠足にまで堕ちたかという、そんな思いで読み始めた。しかし筆にのせられて、こちらが熱くなってくるのはどうしたわけだろう。
コンビナート地帯の建物をはじめとする立体、平面のこまものを、目にうつる順序で自分勝手な連想と回想で色づけしながら描いていく。(略)
このような、語彙と観察だけで成り立つ作品は外国語にもそのまま転換可能である。鶴見線という支線のわびしい無人駅がそのまま「国際性」をもつという、そんなレベルをこの作品は流れていく。日本の文学はこの百年のあいだに何を残したか。それは、武者小路実篤の「新しき村」という、外国にも意味がわかるものだけだったというふうに答えるとしたらという意味での「国際性」である(誰もそれだけとは考えたくないとしても)。

小島信夫

以下ように小島信夫を評価するから、弟子を自称する保坂和志を一見やさしい言葉を装ったインテリ薀蓄小説でしかないと批判するのだろうけど。

見えにくいので、ぼくなどはいつも繰り返し読むことになる。そのうちに、回りくどいと思われた文章が、これはこういういいかたでしかありえないのだ、と思われてくる。見えにくいままに少しずつ文章がもつもの、ことばがつかもうとしているものが読者にも感じとれるようになる。すると文章全体の景色が変わってくる。読者は自分の成長を見る思いになり、不思議なことに気持ちまでなごんでくるのである。
小島氏の独特の感性や論理は、独特なだけに、文章の網にはかからない。文章が見えにくくなり、乱れるのはそのためだが、それに反して、見えやすい文章というものも人によっては書かれている。むしろぼくなどは、こちらのほうに苛立ちを感じる。[村上龍批判が続く]

平野啓一郎日蝕」評

日蝕」は文体の実験だと受け取る人もいる(そういう評価が早々といくつか出ている)が、文体をつくる意欲をもとうとしない人の作品であるようにぼくには感じられる。言葉が見えて、文章が見えないからだ。文章が見えると、読者はその人の思考の輪郭をとらえて、そこに批判を加えることになる。批判さらには応酬のステージに出たくないという文学的世代のなかに、平野氏はいるのかもしれない。

平野氏のような大衆的ではない語彙を好む人の多くは(すべてとはいわないまでも)日常を恐れているのか、自分を高いところに置く。世の多くの人が浴している日常の世界を無視もしくは回避するので、日常との関係が希薄になる。そこを文学的教養で埋め合わせて体面を保つしかない。おのずと作品は「パロディー」に傾く。

赤坂真理ヴァイブレータ

「あたしには何も、何もない。だから人の気持ちで空白を埋めたかった」とするヒロイン。だがほんとうにそうか。
「全身」がここちよさそうに何度も繰り返されるのは自分の言葉をとことんきいてくれる人がいた証拠。ただし言葉は二度使われると強調だが、それ以上だと、ただの現象。相手はきいていない。現象になっていることを知らずに人前で語ることを許されてきた。 ヒロインはそういう人。「人の気持ち」で生きる人とは思えない。作品としては自在で現代的だが、自分の現象を差し出すだけで、かってに現代的にしているのがこの作品。その意味では注目したい。

こ、これは保坂和志を指しているのか

何かひとついうにも、猫のことを持ち出さなくては先へ進めない、自己愛のかたまりのような性情をもつ作家がいるが、そんな押しつけがましい文学も、少数の人たちがつくる熱気に過剰にガードされる。支配的な空気を容認しない人たち、つまり社会性のない人たちと結びついて自己批評の契機を失うのだ。これでは衝突は起きない。論争もない。新聞各紙の文芸時評もただの作品紹介に堕しているのは、見ての通りである。

全然関係ないけど、斎藤美奈子が「ふつうに直木賞を狙えるレベルでしょう」と言い切ったという、劇団ひとり処女小説「陰日向に咲く」、県立図書館では予約4人。とりあえず本屋でチェックしてみようか、うーむ。多分読まないだろうけど。