ビッグ・ピクチャー

映画産業収益の中心は劇場からDVD等に移行している。そうなるとへたにちまちまロングラン興行されるより、さっさと上映打ち切りになってDVDで早々に稼げた方がいいという発想になる。

今までは「映画コケたけど、DVD売れた」と聞くと、「拾う神あり」という風に捉えていたのだが、どうもそういう時代じゃないんだなあ。

劇場における上映期間の長さによって映画の成功度合いを測っていたかつてのスタジオ・システムの時代とは異なり、現代では映画の成功の尺度はビデオ版の成否であり、劇場で封切られてから短期間でビデオ版を出すことが有利な場合が多い。

ロングランより『60セカンズ

スタジオにとっての優先順位のこのような変遷を見れば、パラマウントのトップのシェリー・ランシングが2002年に語ったこと---「私は興行収入には関心がないし、昔からそうだった。私が関心を抱くのは、実際に儲かっているかどうかという点だけだ」---は、ある程度正当化できる。事実、パラマウントのある幹部が指摘したように、仮にあるスタジオがある映画を安く入手し、広告費をほとんどかけないで各地の劇場で一年間上映して、入場料の売上げがあらゆる経費を上回ったとしても、集配センターはスタジオの諸経費を相殺するほどのキャッシュを生み出せないことがあるのだ。他方、『60セカンズ』のように巨額の予算で製作された映画が、劇場における上映期間はわずか数週間で、興行収益の点では広告と配給に要した経費分さえ賄えなくても、大成功と目される場合がある。

  • 1947年主要スタジオはアメリカとカナダでの劇場収入が総収益の95%を占めていた。

ライセンス・ビジネス

主要スタジオとは違う路線をとっていたディズニーが実は現在の産業形態の先鞭をつけた。
にゃるほどライセンス・ビジネスの比重が増えたから、著作権地獄、世知辛くなったわけだなあ。

『白雪姫』の製作を通してディズニーは、映画の新しい観客層を定義すること以上の成果を収めた。つまり、エンターテインメント・ビジネス全体が将来進むべき進路を提唱したのである。ディズニーが描いた将来像の中では、本当の利益は製作費を削減することではなく、映画の中から他のメディアに長期にわたってライセンス料を払わせることが可能な知的財産を創造することから、得られるのだった。

司法省の介入により弱体化したスタジオにつけこんで、俳優監督脚本家をパッケージにして売り込んだMCA。社長ワッサーマンの導入した

歩合制によって俳優の収入は激増

1950年、彼は俳優ジェームズ・スチュアートのために、歩合制の契約を取りつけた。その結果、『出獄』で主役を務めた報酬として、わずか二年前にフォックスから五万ドルしか支払われていなかったスチュアートは、次作『ウィンチェスター銃'73』ではユニバーサルから純益の半分を得ることになったのだった。
ワッサーマンはべつに遠大なビジョンがあってこの歩合制契約を考えついたわけではない。彼にとってこれは、MCAの顧客たちの取り分と、10%の手数料を通してMCAそのものに入る分を増やすための、実践的な手段だったのである。しかしこの歩合制契約はスタジオの、スターとプロデューサーと監督の三者との関係を永遠に変えてしまった。この激震的な変化は、ワッサーマン一人の功績ではない。スタジオ・システムが崩壊した以上、スターたちは当然のことながら、スター・システムの下で奪われていた金銭的なメリットのすべて、とはいわないまでも大きな部分を再び手に入れる立場に立ったのである。

スターと監督とプロデューサーと脚本家(全員がMCAのクライアントだった)をスタジオにふんだんに紹介することによって、この新しい制度を最大限に活用した。皮肉なことに、この新しい取り決めは、禁止されることになったスタジオのブロック・ブッキングに似ていた。(略)
ワッサーマンが先駆的な役割を果たしたこの新しい取り決めは、スタジオの機能を定義し直すことに役立った。つまり、スタジオは自前の資本と契約労働者を使って原材料を映画に変える”工場"ではなくて、資本と芸術的資源の両方を持つ他者を映画製作に参加させ、上がった利潤を分配する”サービス機関”なのである。この新しいシステムの下では、MCAのようなタレント・エージェンシーはしばしば、脚本と監督と俳優を同一のパッケージに入れて交渉に臨んだ。

グローバル化で親会社は合従連衡

スタジオ自体はスターの獲得、宣伝活動、入場料売上げ、アカデミー賞などの面で互いに熾烈な競争を展開しはするものの、彼らの親会社はハリウッドの伝統からかけ離れた、より目につき難いケーブル・テレビ、ビデオ、有料テレビなどの市場では、協力し合うことによって収益の大半を上げているのだ。こうして得られた利益が、この入り組んだ関係の中でどのように配分され、しかもどのように定義されるかという問題は、新しいハリウッドを定義する”集配センター”の概念次第でどのようにも解釈できるのである。

  • と、ここでこの本に対する不安。

スターでも興行に当たり外れがある例として、ディカプリオの『タイタニック』『仮面の男』『セレブリティ』や、ジュリア・ロバーツの『ベスト・フレンズ・ウェディング』『世界中がアイ・ラヴ・ユー』を比較するわけですよ。普通に考えてウディ・アレンの映画はそういう類のものじゃないし、本の後半でもスターが金儲け映画と芸術映画を分けてる記述もあるわけで、そうなると他の分析も心配になってくるのであります。

トム・クルーズの危険なアクション

保険会社が許すわけないのに、スターのイメージを高めるためにスタントは自分がやっていると語る。

多くの危険なアクションはすべて、スタントマンではなくて実はクルーズ自身が行なったもので、イーサン・ハントは彼自身だという、まごとしやかな”裏話”まで流されたのだった。(略)
ウー監督は「トムは恐怖を知らない男だ。私は彼の安全を祈り続けた」と語った。また、PR用の別のビデオ・クリップの中で、監督はこうも言っている。「トム・クルーズはほとんどのスタントを自分でこなす。だから、代役のスタントマンは彼にとって必要なかった」
しかし、実際の製作過程では、トム・クルーズの代役を演じたスタントマンは少なくとも六人はいたのである。仮にクルーズにスタントを自分でやるだけの技術や素養があったとしても、そして仮にスタジオがこうした奇抜な着想によって生じるかもしれない撮影の遅延を意に介さなかったとしても、プロダクションの釤主要演技者″としてクルーズに保険をかけている保険会社は、クルーズが生命の危険はもちろんのこと、かかとを挫く程度の怪我を負う危険を冒すことすら許可しなかったはずである。

マルチプレックスがピンボケで暗くなる訳。一人の映写技師が八本映写するのは経済的なのだが

[フィルム引火という]高くつく事故を避けるために、マルチプレックスは映写技師にフィルムとランプを支えるバルブの隙間を少し広げさせる。安全のためにこの隙間を設けた結果、映像のピントはぼけていることがよくある。(略)
オーナーは、(略)20代の観客は、映画がアクションが盛りだくさんで、特殊効果を満載してありさえすれば、画面が少しくらいぼけていてもまったく意に介さない」ことがわかったと語っている。[同様に](略)1個1000ドルもするこれらの電球の交換の頻度を下げることによって、マルチプレックス・チェーンは年間数十万ドルも節約できる。その結果、当然のことながら、上映される映画は監督示指示するレベルより暗くなる。

なぜビデオは高額だったか。

アメリカの法廷が支持してきた。ファースト・セール・ドクトリン(一次販売の原則)は、著作権のある作品の複製を合法的に購入した人間には、その商品を著作権者の許可なく他人に貸したり、分配したり、再販売する権利を認めていたからだ。そのためスタジオは、自社ビデオに(100ドルあるいはそれ以上もの)高い値段をつけていた。

ウォルマートにとってDVDは他商品の販促でしかない。映画はオマケでしかない。顧客の「家族的価値観」に反しないエロ暴力を規制する。スタジオは自然とウォルマートの規制基準に沿うようになる。

これらの小売業者の関心事はビデオ・ショップと同じではない。彼らはしばしば、DVDの販売を最終目的ではなくて、ある目的のための手段とみなしている。つまり、店内のほかの商品を販売するための集客だ。実際に、DVDはしばしば”目玉商品”として卸値以下の価格で販売されている。この戦略が功を奏するために、小売業者はDVD以外の、もっと儲かる特別提供品を買う可能性のある買い物客を引きつけるようなタイトルを選ぶ。