ハウルの動く城

新作DVDも80円レンタルということで貧乏な僕もようやく「ハウルの動く城」が観れたYO。オウム服の女が歌うオウムソングが大ヒット(全国総オウム化計画に日本の夏はキンチョー)した前作は実際観てみたら「混迷日本下のボーイ・ミーツ・ガール」だったりして「もののけ」よりは納得できたのだけど、今作は「911以降」にバージョン・アップ。

ハウルの動く城 [DVD]

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わけがわからないという世評の一番の理由は「荒地の魔女」だと思うのだけど、あれは宮崎駿だと考えるとわかりやすくなります。軽薄に煽り文句をつけるなら、「宮崎魔女が取り持つ、負け犬女と電車男のお見合い大作戦」。あと対立構造をはっきりさせられないのは「正義の戦争なんてない」となれば、正しき者の戦闘勝利は描けないし、アメリカでも配給できなくるなるからじゃないかなあ。マイケル・ムーアでさえあれなのに、ジャップになんか説教されたくねえだろうと思われ、鈴木敏夫が必死の工作。

  • 宮崎、自己完結ヤングに激怒

駐留兵(世界状況)には目を合わせずに、ちんまい世界(セカイ系?)で自己完結している若者は、「いつか王子様が」現われて空中散歩してくれないかしらとつい妄想して浮かれて外に出て現実に直面して(モテモテの美人妹)またひきこもるわけです。
そこに怒れる宮崎駿荒地の魔女)が登場してバッサリ。

「貴女もじゅうぶん安っぽいわね」

あの若さが欲しい。あの若さがあればまだまだ自分はドデカイことをやれるのに、若者はチンケな世界で老人になっている。怒った宮崎は「望み通り王子様と暮らせるようにしてあげよう、ただし婆さんとしてだけど」とイジワル。
ところが女はウキウキと城へ向かいます。だってもう女じゃないから楽なのです。嫌悪する「性」から逃れられたからです。若者に声を掛けられても以前のように身を固くせず「ありがとよー」と言い放って前進です。案外しっくりきているのです。
一方「きれいな戦争」を粛々と行う世界から落ちこぼれ、精神世界に行ってみたらサリン散布の羽目になり、悶々とネット三昧の男のところへ見合いの報せ。女の好みに合わせてイケメンに変身して女の妄想に付き合ってあげているのだけれど、若い女に戻っている寝顔を見て段々腹が立ってきます。だって呪いをかけられたというけれど、それは女が自分で縛っている呪いだからです。美男にうっとりして家に上りこんできてデレデレ世話をやくくせに、老女のままで「セックス」は嫌なの平然と主張するからです。デレツンですよ、デレツン。どうなっちゃんてんだよ、岡村ちゃん大爆発ですよ。もうこんなのいやじゃー、イケメン?エルメス?ふざけんなあとばかり緑色の男汁を垂れ流します。

「美しくなかったら、生きてたって仕方ない」
「年寄りのいいとこは、失くすものが少ないことね」

ここでようやく女は自分が認めたふりをして、その実、小世界にひきこもって直視しようとしなかったものを突きつけられて雨の中で号泣します。

  • ハヤオ、宮殿に死す

お城に召還されたところに再度宮崎登場。ここで再確認させるように呪いを解くのは女自身だと告げます。それは宮崎の引退宣言でもあります。後はヤング諸君でよろしく。

「呪いはかけられるけど、とけない魔女なの」

階段昇りから怪光線を浴びるくだりが宮崎駿魂の叫びです。
宮崎からみれば未熟な後続者に抜かれていく、怒り、煩悶、容認、若さがあればまだまだ負けないはずだけれど、実際こうして追い抜かれていくのだし、もうそれを認めて若い世代にバトンタッチするしかないのだなあという引退宣言。
(愛嬌で登場する押井守犬は、「押井よ、これからはお前が俺の代わりに、若い世代に足手まとい扱いされ、「終わった」とバカにされながら先を行け」「もう俺はここでさよならだ」という涙のメッセージ?)
そしてあの部屋で残酷に浴びせられる光は、文部省PTA推奨という圧力か、観客動員更新しようが「戦争」という事態の前には全くの無力を描いているのか。

  • 心あるものは涙せよ!ドライフリーズ宮崎駿

食うためのアニメ仕事でも何かを伝えたいと思ってボロボロになってやってきたあげく、自分のアニメを見て育った人間が「マヌケはイラクで死んでよし」「国士だあ」と意気がっているわけです。それで駿はしわしわのばーなのですよ。「すまなんだあああ」と懺悔しろよオタク諸君。
マヌケなサヨクの反対を行けばマヌケにはならずにすむと思っている単純なオリコウさんは言うだろう「たかだかアニメ職人が説教臭いんだよ」と。しかし心あるものなら怪光線で干からびて燃え尽きた宮崎駿の姿に涙せよ。

サリマン
「心を失くしたのに、力がありすぎるのです」
若者に戻ったソフィーが高らかに
「悪魔とのことは、きっと自分でなんとかします」

てな会話がなされてなんだかんだあって、やっぱり守るものがあるからとハウルが出陣すると、ソフィーはもう城なんていらない四畳半から焼け跡から始めましょうとダウンサイジングしたダチョウのようなミニハウル城で走り出します。娯楽映画的に言えばこれが縦横無尽に駆け回って痛快活劇となるところなのだけど、監督はどうしてもあの闇の扉につなげたくて(戦闘による解決を避けたくて?若手が自立しようと四苦八苦しているのを見ているうちに若さが欲しくなってくる自分を自虐的に描いて?)、荒地の魔女のボケで、ミニハウル城も崩壊。

  • そしていよいよ号泣の扉

扉の向こうは漆黒の闇です。どうなるのかわかりません。でも確かな未来なんてものを守ろうとして殺しあうのなら、真っ暗な未来に向かって歩きだすべきだ。「迷わず行けよ、行けばわかるさ」w。(盟友の「火垂るの墓」、飛び交う蛍とふりそそぐ業火、するとハウルは野坂か、50年後のよれよれ日本)。前作でも描かれた「ボーイ・ミーツ・ガール」の瞬間がさらに感動的になって、僕はじんわりきましたけど。(素人考えを述べるなら、あの光の色ってCGじゃなかったらもっとキレイな色になったんじゃないかな。いやあの光景自体ももっと凄いものだったら。つまり泣けたのは光景の素晴らしさというより、「闇に歩き出せ」というメッセージの方に泣けたような気がする)

「そんなに欲しいのかい。大事にするんだよ」

猪木が藤波にベルト巻き、長州が肩車、実況は古館、昭和63年8月8日横浜文化体育館、それから十年経って猪木カウントダウンは継続中だったりするのが人の世なので、新日ジブリ城の今後はわからないw。

「サリマンなんかにハウルを渡さないよ」

  • 余談

「手下にみつかる」ハラハラドキドキ逃亡劇とかボスキャラ登場とか活劇パターンに沿えば不評も消えたのだろうけど、監督本人にすれば過去にやってるんだからもういいでしょ、若い奴がやれよ、という気分なんだと思う。
えー、案山子はどうなんだという話があって、倦怠飽食ヤングが呪いをかけられて無償の愛を知るとかなんとかなのか、現実の男は案山子の方なのかとか、考えるとまたややこしくなるので、放置。
文章ムチャクチャだろうけど、言いたいことはわかるハズだ。