ホーソン論-アメリカの神話と想像力

ナサニエルホーソン論-アメリカの神話と想像力
[大井浩二]
1974年発行の本です。

最近のすぐれたアメリカ研究家たちは、アメリカ人の意識のなかに、アメリカを無垢の庭園とみなし、そこでヨーロッパの文明や制度や伝統に毒されることのない、自然のままの生活を営むという「神話」が、根深く定着していたことを明らかにしている。(略)
アメリカが人類の理想ともいえるエデン的世界であるとする態度が、ヨーロッパ人一般に受けいれられたのは、はじめに大自然ありき、といっても過言でない新大陸の姿から考えて、ごく当たり前のことであったのだ。アメリカをエデン的な庭園とみなす「神話」は、もともとヨーロッパ人のアメリカ意識に、ヨーロッパ人がアメリカにかけた夢に、端を発していたのである。

フィリップ・フレノー

『立ちのぼるアメリカの栄光』(1771)

は、未来のアメリカをうたいあげる一節でおわっているが、そこでのフレノーの言葉をかりれば、アメリカという「幸福な地上」に「天国から送りこまれた、新しいイェルサレム」が出現することになる。(略)
アメリカを「新しいイェルサレム」とする発想の背後には、アメリカがキリスト再臨の場として選ばれたのだ、という植民地時代からの一般的な考え方がうかがわれると同時に、地獄的な世界としてのヨーロッパのイメージもまた、はっきりと浮かびあがっているのである。
当然のことながら、フレノーはアメリカを「新しいパラダイス」と規定する。

産業革命の目撃者

いや、ホーソンの生活そのものが、アメリカの産業革命と切りはなせないのだ。たとえば、彼が生まれた1804年には、英米の発明家たちが蒸気で地上の乗りものを動かす実験に着手している。彼が大学入試の準備にはげんでいた1820年は、ジョン・スティーヴンズがニュー・ジャージー蒸気機関車を走らせた年であったし(略)
1869年には最初の大陸横断鉄道が完成するが、それはホーソンの死後わずか五年しかたっていない。(略)
彼が1804年という鉄道に関する最初の実験のおこなわれた年に生まれ、1864年に死んだという事実は、産業革命の生きた目撃者としてのホーソンを読者のまえに押しだしているのだ。

短編「あざ」。

主人公科学者の美しい妻の顔には「あざ」があり

エイルマーは妻の「あざ」に対して、しだいに偏執的になってゆく。「これさえなければ完全な」妻が、おぞましくさえ思われてくるのだ。彼にとって、「あざ」は「人間の致命的な欠陥」となり、「妻が罪、悲哀、衰退、死をまぬがれないことを示す象徴」ともなってくるのである。ホーソンが「あざ」を人間の原罪の象徴として用いていることは、多くのホーソン研究家が指摘している。(略)
エイルマーの「完全主義」は、きわめてアメリカ的な衝動でもあったのだ。(略)
短編「あざ」の主人公は、「人間の不完全さのしるしである悪が除去できると、悲劇的なまでに確信しているローマン主義者で、超絶主義者」である、という評言さえも聞かれるのである。さらに注意しなければならない点は、こうした完全主義の背後に、あの「庭園の神話」が働いているという事実にほかならないのだ。
[あざがなくなれば妻はエデンの園のイヴになれる]

メルヴィル『ホワイト・ジャケット』

(1850)における選民意識。
「国家的な利己主義が無限の博愛である」

われわれアメリカ人は特異な選ばれた民である---現代のイスラエルなのだ。……神がわれわれアメリカ人に偉大な事柄を予定されていると、人類は期待している。偉大な事柄を、われわれはわれわれの魂のなかに感じる。アメリカ以外の国々は、やがてわれわれの後塵を拝さねばならぬ。われわれは世界のパイオニアであり、われわれのものである新世界に新しい道を切り開くべく、未知の荒野に送りこまれた先発隊なのだ。(略)
メシアはわれわれのなかに到来している(略)
われわれの場合、おそらく地上の歴史においてはじめて、国家的な利己主義が無限の博愛であることを、常に記憶しようではないか。

1967年のアメリカ上院外交委員会で歴史学者H・S・コマジャーは、アメリカ人が「戦争を聖戦に転化させる」傾向があったことを指摘している。

この発言は、最近のヴェトナム戦争を例にとるだけで、その正しさが証明されると同時に、「国家的な利己主義が無限の博愛である」というメルヴィルの言葉を、あらためて思いださせるのである。