レノン写真集、震災時の作家達

JOHN LENNON ”THE NEW YORK YEARS”

JOHN LENNON ”THE NEW YORK YEARS”

ニューヨーク時代のジョン・レノンの写真と回想
渋谷陽一が喜びそうなフレーズ

彼は、自分の影響力に関しても実に控え目だった。(略)
はっきりと意識しているかどうかはともかく、彼は人々がすでに感じていることを表現することが、自分のアーティストとしての役割だと思っているらしかった。

ニクソン勝利の夜、自棄酒でへべれけになってパーティへ行くとお開き寸前

ジョンは一人の女性に近づくと、彼女とともに次の間に行ってしまった。残りの人間は、動揺と不快感をあらわにしているヨーコとともにぎこちなく座っていた。
壁を通してジョンとその女性のうめき声が聞こえてきたので、私は音を消すためにレコードをかけた。

12月のある夜、無断入館できないはずのダコタ・アパートのドアベルが鳴った。不安がるジョン達の代わりに著者が応対することに。

私が内側のドアを開けると、クリスマス・キャロルのような歌が聞こえてきた。私はジョンとヨーコに向かって「心配ないよ。子どもがクリスマス・キャロルを歌ってるだけだ」と叫んだ。外側のドアを開けると、目の前にいたのはリンダとポールだった。(略)2人が入ってくると、全員大喜びだった。

ユーモア

ジョンと歩いていると、誰かが「ジョンにそっくりだっていわれない?」と言った。「あるよ。あのくらい金がありゃいいけどね」と答えた。

アレン・クラインとの契約解消

彼のオフィスには、彼がショットガンを持っている有名な写真が飾ってある。その横には、「そうだ。死の影の谷間を通り抜けようと、悪を恐れはしない・・・なぜなら、おれがこの谷間で一番の悪党だからさ」という文句の入った飾り板が立ててある。それでも、あの夜のジョンとヨーコはアレンととても親しげだった。

ベイ・シティ・ローラーズ

メンバーがジョンに会いたがっていたので、会ってみるつもりはないか聞いてみた。「じゃあ、伝えてくれよ。5年後にまだやってたら、ぜひとも会おうって」というのが、ジョンの返事だった。
ローラーズに何かアドバイスはないかと聞くと、「今の名前で稼げるだけ稼げ。そう言っておいてくれ」と、ジョンは言った。

明治大正 翻訳ワンダーランド (新潮新書)

明治大正 翻訳ワンダーランド (新潮新書)

関東大震災時の作家達(「新潮」大正12年10月号)

里見紝は、妻子ともに無事だったことを神仏に感謝しつつ、こういう百年に一度の大地震にめぐりあったのは、「愉快と云っては強すぎるけれど、決して不幸の感ばかりではない」と言う。久米正雄は、目前で家が倒れるのを見て、活動写真撮影のためにセットを崩したぐらいにしか思えず、そばへ行くと家が全壊しているので、「おやおやと思つた位だつた」。その後、鎌倉の長谷の通りで女が「(夫が)頭を割って、脳味噌が出てゐるんです。早く医者を呼んで来て下さい」と呼び止めてくるのを、「どうかして応急の手当をする外仕方がありません」とだけ言い捨てて、後ろも見ずに逃げ去った。佐藤春夫は上流社会の「女友」から地震後にもらった手紙(と装ってじつは彼自身の創作?)を披露しているが、被害のすくなかった青山に住むこの有閑婦人は、自宅の物干しから燃えさかる町の火をながめて、「昔ネロがつけた火」みたいだと思ったり、「むしろ自分も被害のあつた真中にゐて真剣に命のせとぎはを渡つて見たかつた」とおっしゃったりする。宇野浩二も住んでいた土地の地盤や位置がよかったせいか、そう大変な目にも遭わず、「唯あれだけの振動の為に」東京が壊滅してしまうとはと驚き、小さな川に「セルロイドの人形のやうな色をした……脹れた手足を露出した人間の溺死体が、無造作にぽかぽか浮いてゐるの」を見て目をそらすのだった。

リンカーン・あるある新ネタ
さまぁ〜ず・大竹

「辛抱出来ずに手離す」