もうひとつのイギリス史

ロンドンはローマ人が紀元一世紀につくったロンディニウムが起源。
コベットは急激に膨張するロンドンを「おできの親玉」と呼んだ

現在都市問題が論じられるときに、しばしば使われる語に「スプロール」がある。「無秩序拡散」とか何とか、ひどく小難しい訳語が当てられているが、原語は実に簡単で、しかも極めて鮮明な視覚的イメージを伴っている。「行儀の悪い格好で寝そべる。手足をぶざまに投げ出して横たわる」の意味だ。この語を都市の膨張の表現に転用した最初の人は誰か知らないが、詩人と呼んでもいいくらいの天才である。

無防備都市

 ロンドンを恫喝するためのロンドン塔。

ロンディニウムは、ローマ人の大好きな壁でぐるりを取り巻かれた都市ではなかった。(略)つまり開かれた都市、無防備都市のはしりというべきものである。(略)
これでわかるように、ロンドンはもともと、権力や軍事力でなく、金力によって自立できた町であった。交通の拠点ということで、商業交易が栄え、運送サービス業にとっても絶好の場所であった。(略)
政治権力(及びそれと癒着した宗教権力)の座ウェストミンスターと、商業の中心ロンドンとは、同じテムズ河の北岸に少々距離をおいて共存していたわけだが、いつも平和的共存だったとはいえない。(略)
[国王はロンドンを恫喝するためにロンドン塔を建設]
表面上は外から侵入して来る敵からロンドン市民を守ってやるための砦、ということになっていたが、その実際の用途は牢獄(略)これは明らかにロンドン市民に対する報復的いやがらせとしか考えられまい。

「法学院」は法律屋の宿

民事裁判所は、ウェストミンスターの宮殿の中にあったが、そこで仕事をするプロ、裁判官や弁護士は、ウェストミンスターでもロンドン市でもない、その中間に住むのがよかろう、と考えられた。
法律の親方たちは、ちょうど他の仕事の親方が徒弟をあずかるように、自分の家に学生を住み込ませ、実地仕事の手伝いをやらせながら、法律を教え込んだ。これが現在なお存在する「法学院」のはじまりであった。日本語で「法学院」と訳されているが、原語では「インズ・オヴ・コート」、直訳するならば「法廷の宿屋群」?

今のロンドンはロンドンとウェストミンスターが膨張する過程でくっついてできたものである。

しかし、この「都会」は英語で言うと「タウン」であって「シティ」ではない。本来の厳密な意味で言うと、「シティ」とは主教の座のある聖堂を特つ町のことで、人口や面積の大小とはかかわりないのだ。

14世紀農民一揆、ワット・タイラーの乱の指導者ジョン・ポールが使った言葉「フェローシップ

お気づきのことと思うが、「フェローシップ」は、支配者の言葉であるフランス語から輸入したラテン系の要素を完全に排除し、アングロ・サクソン人民衆の本来のゲルマン系の古英語だけで作った、まさにホームスパンの布のような、手ざわりは粗いが腰の強い語感の単語といったらよかろうか。

ピューリタンに追放された芝居

ピューリタン的道徳は圧力が高まって、ついに臨界点に達した1624年、劇場封鎖という事態が生じたが、さすがのシェイクスピアもここまでは予想はできなかったろう。理由はいろいろ挙げられているが(少年が女役を演じること、役者の世界における性的放縦などなど)、結局のところ、芝居はお芝居であって、嘘くさく「真実」にほど遠いということなのだろう。
シェイクスピアをはじめ、華やかな花が咲き誇った庭園は無残にも踏みにじられ、それにとって代って栄えたのが、「真実の物語」を歌い文句にした小説という文学形式で、これが市民社会という腐葉土から育って、17世紀末に大輪の花を咲かせたことはよく知られている。パミラの物語は主として彼女の手紙と日記によって構成されているのだから、これは嘘ではない真実だ、とピューリタンの読者を納得させることができたことと、右に述べた通り道徳性が現実社会で報酬を受ける希望(あるいは幻想)が、そろそろ字の読める率が高まりつつあった低い層の市民にアッピールしたからである。

元祖廃墟マニア

教会や屋敷の廃墟を見て、廃墟そのものに美を見出す「ピクチャレスク」派の美学者

マルサスに怒るコベット

イギリス国民を海外移住させよ、なんぞと現今生意気にも提唱している多数の悪党どもの、無知、愚鈍、低能、傲慢、我慢のならぬ空気頭と思い上りと野蛮性、この連中はあの怪物マルサスの原理を土台としているのだが、このマルサスという奴は、無情冷酷な少数支配者どもや、その腰巾着どもに、人間の自然繁殖の傾向はその増加に対応すべき食料生産能力を遥かに上まわる、という口実を与えてくれたのだ

裕福な詩人ポープの造園デザイン

人工をあまり加えない自然そのままの美を求めているのだが、さりとてまったくの自然の混沌ではない。いわば自然らしく見せるために、技巧の跡を見せないような技巧を凝らしたのである。同時代のある人がこれを「デザインされた不規則性」と呼んだという。(略)庭というのはいかに自然のままと言っても、もちろん自然そのものではあり得ない。人間が塀や柵を使って、自然を文字通り囲い込み、閉じ込めることだ。(略)
だが、ポープの庭では、囲っているという人工性を隠すために、生垣の内側にびっしり茂った森を植え込んだという。つまり悪くいえば自然と人工のどっちつかずであるし、田園と都市両方のまがいもの的ごった煮であるが、積極的に評価すれば、知的操作による自然の整頓、人間的要素と自然的要素の融合共存であり、次の時代のロマン主義や「ピクチャレスク」の美学への橋渡しである、と言えよう。
(略)
「ピクチャレスク」とは、異国情緒、グロテスク、恐怖のような感情をも、不快と排斥しないで、ひとつの美的概念として取り入れようとした試みで、まさにロマン主義の先取りであった。

『闇の奥』のアフリカ、地獄のベトナム

密林にやみくもに砲弾を射ち込んでいるフランスの軍人たちは、反戦思想にとりつかれ、戦争は空しい愚行だと悟った上で、冗談半分、遊びとしてやっていたわけではない。冗談でやっていたのなら、まだ救いがある。しかし、おそらく真剣に、必死になってやっていたのであろう。それだから恐ろしいのだ。
戦争は必要悪、ある大義名分を実現するためのやむを得ぬ手段だ、その一役を担って自分たちは行動しているのだ、と必死になって自分に納得させつつ、大砲を射っている。こんなことをしても何の意味もない、何の効果もない。さいの河原の石積みと同じことだ、と悟ったりしようものなら、狂ってしまうだろうから、そうならないよう、必死になってやっている。
あのアフリカの未知の暗黒、はかり知ることのできない自然そのものが秘めた恐怖に、自分がとり憑かれたら、狂ってしまうしかないと、本能的に感じているのである。だから、その恐ろしい暗黒、原始がはらむ得体の知れぬ神秘を認めてしまったら、もうこっちの負け、こっちの身の破滅なのである。だから、その暗黒、原始、はかり知れぬ、得体の知れぬ何かを破壊しようとして、大砲をぶっ放しているのだ。

『闇の奥』

『闇の奥』はテムズ河に浮かぶ船の上で船乗りマーロウによって語られる。マーロウはテムズ河を見ながら、遥か昔この河をローマ人がさかのぼってきた時のことを想像する

口ーマ人は当時としては世界一の文明人、それが得体もしれぬ野蛮人--後にブリトン人と呼ばれるようになった--が住んでいるかもしれない不気味な島へ何のために出かけたのだろうか。世界の中心である町、「永遠の都」と呼ばれたローマの人が、新しい野を求めてやって来たのだ。近世以降に、テムズ河を下って、世界の中心の町ロンドンから、人びとが新しい野を求めて未開の地へ出かけて行ったのと同じ行動が、しかしまったく逆の方向になされていたのである。
コンラッドはこのようにして、近代人の生き方と行動を、原始の時代と対比させることで、読者にある歴史感覚を抱かせようとしたのであった