西洋から西欧へ

西洋から西欧へ

西洋から西欧へ

学者が日頃引っ掛っているテーマをやさしい言葉で対談しているので、どうしてもヒントだけになって、なかなかポイントを引用するのが難しいのであります。こっちもよくわかってないので、ぼんやりとした引用になりまするー。

救貧法については[https://kingfish.hatenablog.com/entry/20050225">2005-02-25 ジョン・ロックの市民的世界とかも参考に。

資本論

小林 ところがイギリスというのは、ヨーロッパの中では実に特殊な地域ですね。そしてマルクスはそのイギリスで経済学を大成するわけです。(略)『資本論』ではマルクスは非常に慎重な物の言い方をしてはいるものの、だんだん理論が煮詰まってくると、結局、蓄積のためには産業予備軍の存在が必要だということになるわけですが、産業予備軍というものは、結局、生きていなきゃ予備軍じゃないのですから、この人口をだれかが食べさせていたに違いないと思います。(略)マルクスが”産業予備軍”というものを考えたときには、失業者は放置されてはならない状態で---とにかく、少なくとも、生かさぬように殺さぬように存在する人口であって、それは根本のところでは法体系*1に支えられて生きているわけですね。つまり、失業した人はだれが食べさせるかというと、国家なり自治体なり等を通じて(略)搾取する階級からその剰余価値の一部が失業者に回っていかないとならないわけです。(略)そうすると、剰余価値を回していけるくらいの余裕が資本家になくちゃならない。ほかの国で生まれた経済学でそういってるものはありませんが、それはやっぱり、イギリスでは現実に広大な植民地所有が存在して、外国でのいろいろな収奪の経路を経て国家の収入があるから、結局はそれを回すことができるようになる。こういう事情を考えれば、フランス人には『資本論』はわかりにくかったようにも思われます。

基本的人権

小林 基本的人権という考え方は、むろん表明された形ではヨーロッパの近代に出てくる考え方です。それが大陸で政治的に確立するのはフランス革命でしょうか。しかしそれは根が深くて、中世にさかのぼって、地主と土地を耕やす人間とのあいだの関係は、根本的に契約に基づいている。これは非常に独自な思想ですよね。(略)ですけど、経済学をやっている人間は(略)だいたいの人はスミス以後の学史に目を向けておられるでしょう。その時代に問題になっているのは、基本的人権といったようなものはもう通り越した、蓄積とか生産力とかいうものですよね。だから、基本的人権の考えが経済学を生んで、経済学が、生産力→蓄積という要請を今日までジャスティファイすることを続けているという一つのプロセス、一つの事実の中で、最初、ここに基本的人権という考えがあって、この軸から、生産力の飛躍的発展ということが結びつく必然的な論理のようなものが生まれた……。しかしこれが結びつかなきゃならないのかどうかということがそもそも問題で、近代とか、ヨーロッパの本質とかいうものをつかまえるときに、それをどこで(どの時点、どの場所で)つかまえるかによって、非常に違ってくると思うんです。
杉山 つまり、今度の場合でいいますと、近代的・工業的な生産力という側面でとらえるのか、基本的人権という制度的な側面でとらえるかということですね。

小林昇は1916年生まれでベトナムからの帰還兵としての本も出している。命令で戦争に行ってきたのに、帰還してきたら戦争をやった軍部の手先というような目で見られたと。

戦争経験者

小林 今日では戦争をおこしちゃいけないんだということの理由として、繁栄というものがそれで失われる、また物がなくなって困る、死人も出る、というくらいにしか考えないんですね。だから、戦争中はこんなに物が足りないで困ったとかいうことばかり言うんです。しかしそういうこととは別に、ぼくの場合のように実際に駆り出されて、いくらかは戦闘もやったり、その他いろいろなことをやらざるをえなかったという人間は、やむをえずして加害者にならざるをえないということもあったんです。戦争というものは人を加害者にするんだ、ということを言う人はほとんどいないですよ。(略)
[地震といった]災厄と戦争という災厄との違うところは、戦争は人を加害者にする、人間を人間でなくするという点です。人間でなくするというのは、加害者としての行動が人間らしくないというのじゃなくて、加害者になった人間というのは人間の資格がなくなるということで、それなのにたとえば、いまも、杉山さんが言われた、戦後四十年なら四十年という人生を生きているんです。社会の中でなんとかみな生きているんです、たくさんの人がね。
これはどういう内面的な生活であったかということをトレースするのは非常にむずかしいことで、いまの人々はそういう問題に思い至らないわけですね。それでやはり、物質的な繁栄というものの見地からものを言っている。ぼくはその点が、どうしても戦争経験とつながらないと思います。このぎりぎりのところはわざわざ声を大きくして言う人間が戦争経験者のなかにはいないんです。
杉山 そうです。ですから、きれいごとが多くて、このごろ比較文学とか、比較文化論というのがはやっているようですが、(略)なにやら繁栄を自明の前提にした上で過去を見るというね

経済学の店じまい

小林 経済学というのは法学の中から出てきた学問ですね。アダム・スミスの場合もそうだったけれど、ジェイムズ・ステュアートなんかはモンテスキューのなかから出てきたといってもいいでしょう。そうして今後ある時期になれば、法学は続くけれども経済学はそろそろ店じまいするというようなことになるんじゃないかという感じがしているんです。これはどっちの学問が基礎的だとか、どっちの学問が立派だとかいう問題ではなくて、動物でたとえると、長生きするタイプの動物が法学で、非常に動き回るけれども、命の短いのが経済学だというふうになっているんじゃないかと思います。