「声」の資本主義・その2

前回の続き。

19世紀初頭のアマチュア無線

注目すべきは、この時代のアマチュア無線家たちが、商業的な無線局や海軍の無線技師をも凌駕する技能を身につけていたことである。彼らは、特許権の問題をそれほど気にかけずに自宅で装置を組み立てていくことができたから、最新の技術をいち早く導入していくことができた。(略)
[緊急無線をいちはやくキャッチ]
こうした電波の世界におけるアマチュア無線の優越は、とりわけ海軍にとっては見過ごすことのできないものであった。実際、マニアの一部には、偽の情報を送信して軍の鼻をあかそうとする者もあり、こうしたことがアマチュア無線に規制を求める声と結びついていく。

ラジオは国家の管理下に

1924年『無線タイムス』誌上で逓信省電話課長の戸川政治とL・S生なる人物が論争。ラジオは「公共的なもので而かも独占的性質」だから国家の管理下におくべきだという戸川に対し

無許可の受信機を取り締まっていくというが、「一体逓信省当局は、受信機其物をピストルと間違えて居るのではあるまいか」。「昔、日本の一般社会に薬学の知識のなかった頃、警視庁は売薬小売業者に対し一々小売許可を申請せしめた。目薬一本売るにも警視総監の許可を受けたものだ」。今、逓信省がラジオ受信機に課そうとしていることは、この目薬の一件と大差がないのである。だいたいラジオ受信機が簡単に製作でき、どこでも聴ける今日、逓信省はラジオの許可不許可をどのようにして判別するのであろうか。(略)
ラジオをあくまで国家的な通信システムの延長として掌握しようとする逓信省側の意図と、むしろこれを大衆娯楽のメディアとして、たとえば活動写真や蓄音機と同類のものとして発展させていこうとする志向との対立である。そして、たしかにこの論争ではL・S生に分があるように見えるのだが、実際の放送制度は、むしろこの戸川が指し示したような方向に進んでいくのである。同年12月の『無線タイムス』は、(略)一種の空論たる『空間の混乱』『放送局の経営困難』などと言う美名に迷わされ、我当局は終に予定通り官僚放送局を仕上げたのである」と、みずから敗北を認めている。

「空中自由使用論」

[同時期に]創刊された『無線と実験』誌上では、「空中自由使用論」の是非をめぐって議論が交わされている。空中自由使用論とは一種の電波の公共圏論議であって、①道路の使用がすべての人に聞かれているのと同様、空中も政府や特殊無線電信会社によって専有されるべきではなく、アマチュアにも電波の使用権を認めるべきであること、②無線電信電話の受信は、受信機がどれほど増えようとも他の受信を妨害しないのだから、だれにでも自由な電波の受信を認めるべきであること、③放送内容の良否は公衆の選択に任せるべきで、政府が干渉すべきではないことなどの主張を意味していた。逓信省無線係長の小松三郎は、こうした主張が1924年頃から登場し始めることを指摘し、混信防止、通信の秘密保護、公安および良俗の維持という三つの観点からこうした主張を否定している。それに対し、何人かの論者は、アマチュアの電波使用を認めても、その周波数帯に制限を加えれば不要な混信を防げること、そもそも無線にあっては有線通信や書簡のような秘密保護は不可能であることなど、説得的な反論を試みている。(略)
しかし、電波はそもそも国家の専有物ではなく、これによって娯楽を享受したり、互いに関係を形成したりする民間のものであるという発想は、「ラジオ」や「無線」に対する国家的枠組が整っていくなかで、次第に表面から姿を消していくのだ。

放送の右翼化

室伏のラジオ論は、欧米でのラジオの普及を参照しながら、ラジオの大衆統制的な機能を強調したものである。同様の認識は、1936年9月号の『中央公論』のなかで長谷川如是閑によっても表明されている。長谷川は、ラジオの誕生を印刷術の発明以来のメディア革命の兆候とした上で、「ラヂオが発達してからは、教化一般が中央集権的に統制される傾きをもつことは、印刷術の発達以上である」とする。(略)
同じ号の『中央公論』では、清沢冽が「放送の右翼化」を正面から論じている。清沢によれば、はじめにラジオが誕生したとき、「世界国民の視野は、これがため著しく広くなるであろうことを誰もが期待した」。ところがやがて、「各国の反動主義者はラヂオの役目の広大であることを知って、争ってこれをその支配下におかんとし、そして益々封建的集団本能を刺激することに成功したのである」。今ではもはや、「放送局が全然官吏に乗っとられて」しまい、その放送内容も著しく「官史的イデオロギー」に彩られている。このままだと「ラヂオが反動化し、そのために大衆が反動化し、その影響によってラヂオが反動化する」という悪循環の回路を突き進んでいくことになろう。

皆様の日本放送協会の使命とは

[逓信省の事前検閲という]制約は、1926年8月に起きた三放送局の解散と日本放送協会の設立にはじまり、1930年代の戦時体制にいたる一連のプロセスを通じてますます強化されていく。実際、各放送局の抵抗を強引に排除して日本放送協会が設立されると、協会内部の意思決定の中枢を担う常任理事クラスの役職は、一斉に逓信省天下り人事によって占められていった。(略)34年、それまでかろうじて地方ごとの独自性が保持される支えとなってきた支部制も廃止され、協会組織が徹底的に中央集権的な中央局制になると、放送はもはや逓信省の下部機構のようなものになってしまい、日本におけるラジオの国家装置化はほぼ完成するのである。この年の協会の定時総会に出席した逓信省電務局長は、ラジオの新しい使命についてこう語ったという。
単に民衆の要望に応ずる番組だけでなく、民衆を追従させるべき番組を編成する。特に「日本精神」を基調とする日本文化の育成を編成上の指針とする。(『放送五十年史』90頁)