アヘンとイギリス帝国

イギリス、中国共にアヘンを罪悪視していなかった

アジアでアヘンはマラリアの薬として、また、身体の痛みを和らげるために、ヨーロッパ人がやって来るはるか以前から使われていた。イギリス人はインドにやって来たとき、伝続的医療法のひとつとして「アヘンを食べること」がおこなわれているのを知った。しかし、これは彼らにとって驚きでも、東洋的なことでもなかった。イギリス本国でもオスマン帝国などから持ち込まれたアヘンは16世紀までには薬として使われるようになり、18世紀から19世紀半ばにかけては、それをアルコールに溶かした飲み物がローダナムという薬として広く使われていたからである。イギリスでも当時すでに、アヘンを過剰に摂取すれば中毒という害があることは知られていたが、それほど大きな問題とは考えられていなかった。アヘンが快感をもたらしてくれるという側面に目が向けられ、また、むずかる子供を静かにさせるためにアヘンを与えることも多かったという。のちにアヘンの害毒に関する知識が広まっても、それはアルコールやニコチンの害に比べて、より深刻なものとは考えられなかった。むしろアルコール中毒の方が往々にして暴力や時には発狂にすらつながり、摂取者以外にも被害を及ぼすために、害は大きいと考えられていた

一方中国では上流階級のくつろぎ手段であった

中国でのアヘン消費の特徴は、アヘンを吸うということであるが、この行為は、明末にアメリカ大陸からタバコが台湾海峡付近に持ち込まれ、オランダ人がそれをアヘンと混ぜて用いたことから広まったという。そしてのちには、タバコを混ぜずに純粋のアヘンを煙膏に加工して吸うようになった。(略)
アヘンを吸っても飲酒と違って顔が赤くなるなどの外見的変化が現れず、暴力や粗野な行動を引き起こすこともなかったために好まれたという。さらに、アヘンの吸煙は、中国上流階級の楽しみや社交の手段だけに留まらず、上流の生活に憧れる者も彼らを模倣して吸煙を始めることとなった。

アメリカがアヘンを問題としたのは

(イギリスとちがい国内に中国人移民を多く抱えていたせいもあるが)

アメリカの行動は、もちろん、アヘンという中毒性のある薬物を撲滅し、犠牲となっている人々を救うという人道面での熱情にも支えられていたのだが、他の動機も存在した。(略)ヨーロッパ諸国がアジアに築いてきた植民地支配体制を攻撃するうえで、自らそれほど手を汚してこなかったアヘン問題は、アメリカにとって格好の題材だったのである。イギリスはこの側面に気づき、帝国支配に対する批判であると強い危機意識をもったがゆえに、なおさらアヘン問題と真剣に取り組まざるをえなかったのである。

日中戦争勃発によって、アヘンの需要は増大した

と考えられる。第一に戦費調達のためである。また、第一次世界大戦の場合と同様に、アヘンから精製されるモルヒネの、鎮痛剤としての需要も増加したと考えられる。(略)アメリカ合衆国財務省の麻薬監督官アンスリンガーすら、第二次世界大戦直前には、戦闘で負傷した兵士の治療用に大量のモルヒネが必要とされる可能性、そして原料であるケシをアメリカも国内で栽培しなければならないかもしれないという恐るべき可能性に思い至っていた。

満州のアヘン問題

1930年代になると、中国大陸への侵略を進めた日本は、アヘン問題においても深い泥沼にはまっていった。19世紀とは異なり、すでにアヘンの害が世界の人々に広く認識されるようになっていたこの時期に、傀儡政権として樹立した「満洲国」ではアヘンの専売を目指した。専売自体はジュネーヴ国際アヘン会議でも認められ、この時期、東・東南アジアで広く採用されていた制度であった。しかし、「満洲国」の専売はアヘンの漸進的禁止に向かう過渡的なものとは全く見受けられず、歳入の増大を目指しアヘン吸煙を奨励するものとして、国際社会に対する脅威であると受け止められることとなった。イギリス帝国によるアヘン生産・貿易などを批判していたはずの日本が、イギリス帝国が問題解決に向けて努力を続けていた時期に、利益を求めてアヘン問題に深く関わることとなったのである。

帝国の収支。帝国の変容。

莫大な利益を生み出したアヘン貿易・吸煙の規制は、イギリス帝国の変容を促さずにはいなかった。
[生活苦・病気の為のアヘンを規制するため現地住民の福祉充実が必要になる]
福祉の向上自体は現地の人々に歓迎されたが、一方で、アヘンの規制は植民地の生み出す富を減少させていた。植民地政府は新たな資金源を必要とし、この点からも植民地経済の開発が求められることとなっていった。そして、アヘン置換基金の設立、多様な新税の導入、経済開発の圧力などは、現地社会の不満にもつながり、帝国の変容をいっそう促進することとなっていったのである。