ブローデル歴史集成 2

歴史学の野心 (ブローデル歴史集成)

歴史学の野心 (ブローデル歴史集成)

半分飛ばして第二章から読んだ。
新航路発見、でも、格下だったヨーロッパ商人

ヨーロッパ人がイスラム圏を通過することなく、インドに渡り(1498)、マラッカに到着し(1511)、中国(1517)や日本(1524)にまでも辿り着いたとき、キリスト教圏の勝利は決定的となったのである。
しかしながら、こうした遠い極東の大国が、たちまちヨーロッパに衝撃を受けたり、興味を持ったり、あるいは屈服されたりした、などと考えてはならない。巨大国家インドも、また中国も、これら新参の野蛮人の来訪などほとんど気にも留めなかったというのが実情なのだ。遠いヨーロッパは、彼らの文明に勝る何物をも持ち来ってはいなかった。だから彼らにとって、ヨーロッパの達成したこの偉業の意味などはっきりとはつかめなかったのである。
一方ヨーロッパでは、この偉業の反響は凄まじく、世の中は興奮に沸き返った。胡椒や、特に中世ヨーロッパ人にとって垂涎の的だった香辛料が、驚くべきことにすぐ目の前にあるのだ。しかも安く、大量に手に入る。(略)
しかしヨーロッパは、確かにイスラム商業圏の仲介を排除はしたが、こうした商品をほかの商品と交換して手に入れていた。たとえば、毛織物、銅、銀である(特に銀だ)。しかもこの交換は対等にはなされていなかった。ヨーロッパ商人は格下だったのだ。日本、中国、インドに対して、ヨーロッパは決して勝者などではなかった。ヨーロッパが征服したのは、距離であり、広大な海原であり、人間では、まだ、なかった。ヨーロッパは、合理的で強大な極東文明を、征服したわけではなかったのだ。(略)
アジアはその財宝を引き渡しはしなかった。ただ交換に応じていただけなのだ。西欧はだから、財宝に対価を払っていた。しかもたいていは高額であった。ヨーロッパはアメリカ大陸からむりやり「財宝」を搾取し、それで極東に利益をもたらしていたのである。

オランダ鎮圧の戦費調達が逆にオランダ商人による支配を招いた

オランダが蜂起する。フェリペニ世は武力をもってこれに応じ、戦乱に伴う巨額の出費をも厭わなかった。(略)こうしてジェノヴァの銀行家はフェリペニ世の許可を得て、アメリカ銀をスペイン国外に自由に持ち出せるようになった。防波堤は決壊したのである。(略)
彼らがスペイン国外に持ち出せたのはただ「商品」のかたちでだったのである。特にジェノヴァの銀行家が長らく支えていたのは、セビーリャ・アメリカ間の通商で、これは相当の資本を必要としていた。なぜならアメリカ大陸に布地や毛織物を輸出した際には、売り上げ金を運ぶ船の帰りをじっと持っていなければならなかったからだ。通常、最低でも二、三年、時にはもっとかかった。しかし、1566年から1568年頃を境に、ジェノヴァの銀行家に銀貨や銀塊をスペインから持ち出す認可がおりた。するとジェノヴァの銀行家は、旧来までの気の長い商業活動を捨て去って、銀行業に特化する。こちらの方がずっと好都合だったのだ。では、誰がアメリカとの交易の資金を出すのか。誰がこの突然の、しかも決定的な穴を埋められるというのか。北ヨーロッパの商人たちよりほかにはいなかった。商品販路の拡大を求めていた彼らは、前貸しにも応じたのである。セビーリャ商人は彼らから商品を預かり、アメリカからの船が戻って初めて彼らに返済する。そのうちに、セビーリャ商人は本当の意味での商人ではなくなって、単なる取次業者の様相を呈してくる。(略)
要約しよう。セビーリャは内側から腐ってしまった。大砲の音一つ聴かれることもなく、セビーリャはオランダ人に征服されてしまっていたのだ。この征服は、すでに見た1596年イギリスによる残酷なカディス略奪などとはまったく異なって、長期的な影響をスペインに及ぼすことになる。セビーリャ経済は北ヨーロッパの商人に内側から征服された。多くはスペイン国王の臣下であり反乱分子にすぎなかった彼らに。法的にはスペインとの貿易が認められていなかった彼らに。