クラシック音楽の政治学

クラシック音楽の政治学

クラシック音楽の政治学

クラシック音楽」だけ「純粋」でいられるか

ハワイアンなどというシロモノは、観光客なしには、そのジャンル自体が存在しえないといったほうがいいくらいであり、観光客との関わりを排除した「純粋なハワイアン」などというものを想定すること自体ナンセンスである(略)。だからといって、ハワイアンは地元に根をもたない「不純」なジャンルだというような話にはならない。文化とはそもそもそういう「不純」なものなのであり、それにもかかわらず、「外」との関わりのなかで、ある属性が固有の「本質」であるかのごとくに立ち現れたり、その内実が時代とともに変化したりするということの内にこそ、文化の文化たるゆえんがあると考えられるようになってきているのである。
しかしながら、話がこと「クラシック音楽」に関わるようになってくると、「純粋」なもの、「本来」のものの神話はいまだ健在であるようだ。

音楽の都として観光化しているウィーン

「ニューイヤー・コンサート」自体、「ウィーンの伝統」などとは全くいえないシロモノである。これが開始されたのは1940年のことであり、それまでのウィーン・フィルシュトラウスの曲を好んで演奏する伝統さえなかったし、シュトラウス自身もウィーン・フィルを指揮する機会はきわめて数少なかった。(略)
このコンサートが開始されたのが1939年大晦日という、ナチによるオーストリア併合の時期であったことに注意しておく必要がある。「ウィーンの伝統」を前面に押し出したこのような催しが始まったのは、明らかに、ナチ体制下で圧殺されようとしていたオーストリアの文化ナショナリズムの一環としてであった。

「クラシック」言説の害

しかし音楽では、いくら楽譜を「改変」して演奏したところで、オリジナルの作品が失われることはない。その意味では、音楽においてほかの著作物と同様に法的な同一性保特権を主張することは、しばしば他者の文化実践--演奏や録音、あるいは聴取--への過度の干渉として機能してしまうことになる。そのような過度の干渉に正統性を与えているのが、楽譜のうえに精密に構築された「作品」を、作曲者の意図に従って極力忠実に演奏することこそが「音楽の正しい扱い方」であると考える、「クラシック」言説の存在にほかならない。

おそらく、いずれ「クラシック音楽」はその受容を次第に失い、消滅はしないまでもいまよりもずっとマイナーな文化になっていくだろう。しかし、音楽をクラシック音楽のようなものとしてみる見方、「クラシック」言説は根強く残り、別の音楽が「クラシック」と呼ばれ、古典的な規範となり、「高級さ」を付与されるのだろう。
そのとき、こんにちある「クラシック音楽」は、どんな名前で呼ばれているのだろうか?

電子音楽の起源は戦争である

現在のわれわれが享受している音楽的技術のほとんどは戦争技術から生まれた。L+Rのステレオ音像の定位とは、戦場での敵機特定技術であり、音響信号を増幅したり変調したりする技術こそは、オーディオ技術にほかならない。戦後の放送局の建物に残されていたそのような軍事的音響操作技術のがらくた箱から、電子音楽は生まれたのだ。例えばのちにカールハインツ・シュトックハウゼンのような作曲家が多用するリングモジュレーションは、質の悪い電線でいかに正確に情報を伝達するかというドイツ軍の通信技術の産物だった。

シュトックハウゼンの原体験

電子音楽というジャンルそのものを確立した最初の世代の代表的作曲家であるシュトックハウゼンの原体験もまた戦争にある。精神を病んだ彼の母親はナチス民族浄化政策の犠牲となり、ナチス党員だった父親は戦争末期に自ら前線ヘ赴いたまま戻ってこなかった。終戦時には事実上孤児となった十七歳のシュトックハウゼンは、激しい爆撃に曝されていたケルンからやや離れた郊外の村で、のちに『ヒュムネン』第二部でよみがえる音、すなわち爆撃機がゆっくりと旋回する持続音におののきながら、負傷した兵隊の収容施設に動員され、泥やゴミと一緒になって死んでいく兵隊を看取っていた。生と死が連続して入り交じる経験、そして焼けて平らになったケルンに黒々と聳えるがらんどうの--一発の爆弾が大聖堂中央に落ち、その衝撃でほぼすべての窓=ステンドグラスが砕けた--大聖堂は、シュトックハウゼンの原風景である。

自分達の洗練性を示すためにクラシックを神格化した新興中産階級

いくぶん極端な言い方をすれば、クラシック音楽が「芸術」であるという考え方は、実は産業革命後の新興中産階級のメンバーが、近代以前からのおもな音楽の消費者だった貴族と同じくらい自分たちも洗練されているのだと示すためにでっち上げたのである。(略)
近代化以前、クラシック音楽は、おもに貴族のサロンでいわゆる「ポップス」として用いられていて、作曲家や演奏家は芸術家ではなく使用人としての地位に甘んじていた。ブルジョワジーや、専門自由業に携わる中産階級の新しいメンバーは、音楽を愛好することによって貴族階級に近づいて入り込もうと考えた。(略)
近代化に伴う階級再編成は、大がかりな消費社会がつくられる過程で、真面目で新しい「クラシック」というジャンルを確立した。(略)
ヨーロッパのクラシック音楽の「界」では、新興中産階級が消費者になったことにより、社会的上昇の戦略としてクラシック音楽が機能することを可能にした。

クラシックという制度のからくりを暴いている方々は、分析を行っている自分達の足場をどう捉えているのでしょうか。他人事なのでしょうか、明日の我が身を見ているのでしょうか。いや別に僕はクラシックなんてどうでもいいし、仮に消えてもらっても全く構わないのだけど、アカデミックな方々も御同様な存在なのでありますから、からくりを暴かれて、是非馬鹿な政治家にぎりぎり予算を削られて路頭に迷って欲しいものです、てな書き方されたら気分悪かろうて。