寛容の文化

教科書もこんな風にしてほしいイントロ
 

コルドバに逃げ延びたウマイヤ家の王子

さかのぼること8世紀中葉のむかし、アブド・アッラフマーンという名の勇猛果敢な青年が、イスラームの心臓部にあたる近東のダマスクスを出て、難を逃れる場所を探すべく北アフリカの砂漠を横断しようとしていた。彼の家族、すなわちアラビア半島の砂漠から、はじめてムスリムを高度な諸文化をきわめた「肥沃な三日月地帯」へと導いたウマイヤ家にとって、ダマスクスはいまや畜殺場のような様相を呈していた。彼を除くウマイヤ家の面々は、「イスラームの家」と呼ばれる大帝国を築きあげたアッバース家によって根絶やしにされてしまったのである。
[こうして母方のベルベル人の後を追うようにサハラ砂漠を抜け彼は西へ向かいジブラルタル海峡を渡る。]
アブド・アッラフマーンは彼らが残した轍をたどりながら、世界の西端から狭隘な海峡を渡った。ムスリム植民者がアラビア語でアンダルスと呼ぶイベリアの地で、彼はすでに繁栄した巨大なイスラーム都市に遭遇することになる。

壮大な時間・労力・金によってアラビア語に翻訳されたギリシア文化。イスラム経由で地中海を一回りしてパリに伝えられた

「新しいアリストテレス

1210年、パリで開催された公会議が、コルドバの人アヴェロエス(イブン・ルシュド)の書いたアリストテレスの注釈書を禁書処分にした。(略)彼のアリストテレス注釈書はすぐさまラテン語翻訳版で入手できるようになり、世界がどのように構成されているのかという命題をめぐるアリストテレスの明晰な洞察が規範的な信仰を揺るがし、キリスト教世界の頂点に手に負えない衝突を生んだのだった。(略)
けれども、「新しいアリストテレス」---できたてのラテン語翻訳版が研鑽を積んだムスリムユダヤ人の注釈書のなかに包み隠していたもの---は、そんなにたやすく処刑されはしなかった。このアリストテレスは、何世代も前にバグダードを出発し、コルドバを経由して、ついにパリに到着したのである。それは、12世紀中葉までのラテン・ヨーロッパに存在した貧弱な「古いアリストテレス」とはまるで違った野獣のようであった。(略)新しいものと古いものとの違いは火を見るより明らかであった。かつてのラテン世界においてアリストテレスという観念につきまとったごくわずかで曖昧な連想は、いまや文章から文章へ、書物から書物へと、きわめて詳細で無限の新たなアリストテレスの宇宙にとってかわられたのである。(略)
皮肉なことに1277年には、「イスラーム・スペイン」と呼ぶにふさわしいものはほとんど残っていなかった---唯一、片隅に追いやられたグラナダを除いては。ところが、それがヨーロッパ全土におよぼした知的・文化的インパクトは、いまやその頂点に達しつつあった

異教徒への寛容に対する罰がペスト

1348年の大ペストの直後に書かれた傑作『デカメロン』は、疫病の恐怖の描写で幕を開ける。肉体的な災厄はたしかに恐るべきものであったが、あらゆる文明のバックボーンをなした(なしている)社会的な慣習と市民の道徳規範の完全なる崩壊、急速に広がった病に続く共同体的・家族的構造の崩壊のほうが遥かに致命的だった。遺体が街路に放り出され、大部分の人びとは怯えるばかりの無力な家族や友人に見棄てられ、たったひとりで死に絶えた。こうした社会的・宗教的秩序の大規模で破滅的な崩壊は、寛容そのものと同時に、マイノリティの共同体--ユダヤ人がまさしくそうであった--を犠牲の山羊にしてしまうのである。なぜ神がご自分の僕の絶滅を黙認するのかという疑問に答えるには、聖書を引用して、社会が真の信仰の欠如ゆえに、さらには不信心者に対する寛容ゆえにいままさに罰せられつつあるのだと、誰かが主張するだけで充分だったのである。

スペイン異端審問制度は

あらゆる類の矛盾を許容する社会の500年にわたる歴史のなかで生み出された、邪とみなされるものを正すために設置された。ところが、ことはそう簡単ではなかった。スペインの不寛容が近代黎明期のヨーロッパの人びとのなかでも際立って正統主義的かつ獰猛であり、1492年の出来事が数百年にわたるレコンキスタの勝利と残忍な反ユダヤ主義の絶頂期であるとの共通認識にもかかわらず、これとは正反対のことがあったのも事実であった。かつてのアンダルス流の慣習があまりにも深く根をおろしていたからこそ、一世紀以上にわたる強烈な暴力、たくさんの図書館の炎上、さらにはキリスト教徒の民族的純潔性という当時でさえお笑い種の観念の執拗なプロパガンダがくりひろげられたのである。ここまでしてようやく、スペイン人は深くねざした「中世性」を矯正したのであった。