唯幻論物語

唯幻論物語 (文春新書)

唯幻論物語 (文春新書)

今更なあと思いつつペラッとみたら、小谷野敦の批判に応えるというものだったので借りてみた。
親が子供に家業を継げと圧力をかけるのはよくある話じゃないかという小谷野の批判に対して、そういうことではないと反論する著者。

母は確かにわたしのことは無視して自分の都合を一方的に押しつけてくる身勝手な親ではあったが、それだけでわたしが神経症になったのではない。母は自分の利己的な面を隠したのである。自分では知っていて、わたしに隠したのではなく、自分自身にも隠したのである。そして、わたしに対して無限の無条件の愛を装った。これも意識的に装っていたのではなく、自分でもそう信じていた。わたしのことを「眼の中に入れても痛くないほど可愛い」とか言っていたそうである。母は、周りの人たちには、非常にわたしを可愛がっているように見えたらしい。子供のとき、よく近所の人などに「あんなに可愛がってくれて、いいお母さんね」と言われたのを覚えている。近所の人たちは、母が実母ではないことを知っていたので、実母以上と言えるほどわたしを可愛がる(ように見える)母に感心していたのであった。しかし、そこに自己欺瞞があった。そして、わたしも、子として母の愛を疑うのは親子関係を破綻させ、自分の居場所を失うことになりかねず、恐ろしいわけだから(もちろん、当時、そこまで意識していたわけではなく、これはあとからの推測である)、母の自己欺瞞を共有した。ここで、子を愛し、子のために献身的に尽くす慈母と、母に愛されて感謝する親孝行な子という表面的には幸福な親子関係が成立した。この形の親子関係がわたしが神経症になった原因である。

岸田秀はそれに気付きスッキリして神経症が治ったのだが、なんでしょう、スッキリするとこなのだろうか。どちらかというとコワイと思うところじゃないだろうか。
愛されたいと思う女性がいる。それもストロベリートークで。甘い言葉で愛されたい。だが同時に彼女はそれが自分に似つかわしくないとも思っている。別に彼女がブサイクというわけではない。なんとなくそういうのは恥ずかしいし、落ちつかない。だって「愛される」なんて不安定なものは不安なのだ。もっと安定したシステムが欲しい。けれど(甘い言葉で)愛されたい。でも。
そういうわけで彼女は安心できるシステムをつくる。岸田の母ならダメ亭主の代わりに劇場を切り盛りする苦労ばかりの女主人として君臨する。そして頼られるという愛され方をする。当然彼女はそれは本当の愛ではないと思っている。ダメ亭主は生活のために彼女に頼っているだけで、別に自分を愛しているからではないと思っている。ああ甘い言葉で愛されたい。生活のしがらみじゃなくて、本当に私を愛してくれる人に愛されたい。でも、それは恥ずかしい。それに、とてもコワイ。苦労ばかりだ、愛が欲しい、でも本当は愛が欲しいために自分から苦労ばかりにシステムをつくりあげているのだ。いや当人は全くの貧乏くじだと思って、ひたすらヒモ亭主に苦しむ女主人を生きているのだが。
一方ダメ亭主の方はちゃんと普通に妻を愛していて、この人はこういうシステムじゃないと落ちつかないんだなと察して、けなげにダメ亭主を演じているのかもしれない。実はそこそこに切り盛りできるし、ひょっとしたら妻よりもうまく劇場を運営できるかもしれないのだが、妻のシステムに殉じて不幸のドツボに加担している。
子供は母親が苦労していると思っている。父親がダメ人間だからこんなに苦労していると散々母親から聞かされているからだ。苦労している母親を幸せにしてやりたいと思う。ところが母親が死んでみると母親は自分から不幸を背負っていた。それもただ自分が愛されたいから。子供のことなんて二の次だ。なんといっても自分が愛されることが一番だ。
岸田は母親の目的が劇場の維持(もしくは母親が権力の中心にあること)だと理解しているが、そんなことではないのだ。母にとって劇場なんてどうでもいいのだ、本当に望んでいたのは愛されることなのだ。現実的で働くだけの母親の本当の目的は、愛されることだった。だけれど本当は愛されていて、それに気付かなくて不幸だと思っていて、そんな妻に付き合って不幸になっている夫がいて、そんな夫婦がつくりあげているキッカイな家があって、子供はただ不幸な家だと思っていて、可愛そうな母親だと思っていたら、母親とそれに付き合った父親によるキッカイな家だった。
これは、スッキリするより、コワイと思うけどなあ。