ペルシャ湾

真珠採りたちの静かな海、ペルシャ湾

中国で12万人虐殺

不幸にして唐代の末、875年に始まって全中国を攪乱した黄巣の乱で、広州に居留していたアラブ人、ペルシャ人、ユダヤ人ら多数が殺された。その数は12万人にのぼったといわれる。やや誇張の数字のようだが、唐では人頭税を課していたからかなり正確ではないかとの見方もある。いずれにしてもこの時代の唐とアッバース朝の南海交易の規模の大きさを示唆するものだが、この時以来しばらく、唐とサラセンの交流は途絶えてしまう。

海賊行為は聖戦

ペルシャ湾の海賊アラブにとっても、異教徒であるイギリス人の船やインド人の船を襲うことは、半ば”聖戦”だった。それに本来、この海はアラブのものであり、この航行の自由を奪った連中と戦うのは正義の回復のためでもある。こうしてペルシャ湾での海賊行為が激しくなり、たまりかねてイギリス東インド会社が本国の海軍に初めて討伐を依頼したのは1771年だった。

拝火教の昔から天然資源の気配あり

ペルシャアゼルバイジャンやフゼスタン地方には古代から、消えることのない火を祭ったゾロアスター教の神殿があった。なぜ消えないのか。その神秘的現象は昔の人々には人知を越えたものであり、アフラ・マズダ神の仕業と考えられたが、今日ではその火は地下から噴き出す天然ガスによるものであることが明らかにされている。
このようにペルシャでは古くから天然ガスや石油の気配があった。

石油ブームの発端

地球上で中東地域を無視できないものにしている石油ブームが最初に始まったのは、アメリカでのことである。ランプ用の油を採っていたクジラが少なくなって鯨油が高騰したため、原油から採取する灯油が見直されて需要が爆発的に増えたのがその発端である。1959年、ペンシルベニアのオイル・クリークでエドウィン・L・ドレークが日量35バレルの油井の掘削に成功するや、この「黒い黄金」の発掘のためその十年前のカリフォルニアのゴールドラッシュを上回る熱狂が繰り広げられた。

ペルシャで採掘して四年、石油は出ない。

燃料を必要とする海軍の援助を受けてさらに三年採掘、それでも出ない。遂に1908年本国から撤退命令が。

技師レイノルズは頑固一徹の男である。七年も掘ってきていまさら成果もなく引き揚げるなどは考えられないことだった。ロンドンからの指令の電報をポケットにねじ込んで、探査を続けた。そして二週間後の五月二十六日未明、作業員の一人が「油井が変な音をたてはじめた」と伝えにきて、レイノルズが走ってかけつけたとき、石油が轟音とともにやぐらの上に噴出したのである。
レイノルズは喜びにむせんで本社に石油発見のメッセージを送った。電信略号を手許に持っていなかったイギリス人の電信係はこう打電した。「詩編第104、第15節、第3行目」。イギリスの本社の電信係の上司は、バイブルを参照してこう解読した。「かれはかれの顔を輝かすために地中から油を引き出す」。

ソ連弱体冷戦終焉でクウェート侵攻

危機感を募らせたフセイン大統領は、なによりもこう考えてクウェートに攻め込んだに違いない。あわよくばクウェートを併合して湾岸一帯のアラブの盟主となり、英米の影響力を排除して冷戦後の中東世界の新しい秩序を築こう、としたのだ。イラン革命後のイスラム世界には反米英の機運がこれまでになく高まってもいる。いまを置いて行動するときはないという判断だったのだ。
こうした情勢分析はヤセル・アラファト議長のパレスチナ解放機構(PLO)にしても同じだった。イスラエルを支援するアメリカが唯一の超大国になって現状が固定されてしまえば、祖国パレスチナの領土奪還は永遠に夢になってしまうだろう。こう考えるパレスチナ人の義勇兵フセイン大統領の思惑通り、開戦とともにイラクに殺到した。アラファト議長バグダッドを訪れてフセイン大統領と抱擁し合って共闘を誓った。

クウェート侵攻の中の日本人

筆者はドバイから、陸路アブダビに前進して緒戦の戦況をレポートしたが、驚くべきは中立地帯で操業を続けるアラビア石油の日本人従業員だった。現地採用の従業員は逃れたというのに、日本の従業員だけは残って工場を守ったのである。リヤドの日本大使館退避勧告にもかかわらず、銃弾の飛び交う戦場となった中立地帯にとどまったことは見上げた忠誠心というべきか、命を粗末にする蛮勇というべきか