土地の文明

PHPかあ、orz....。著者は元建設省官僚。
「不老林購入者に薄毛傾向あり」的分析もあったりしてどうかとも思えるのだが

石狩川といえばショートカット、ショートカットといえば石狩川である。自然を破壊し景観をズタズタにした悪名高き川の直線化の代表格にまでなってしまった。

なかなかにひきこまれるイントロ。

石狩川全長の30%の100㎞を削り取った河川改修の図面を見詰めていると、石狩川ショートカットの凄まじさがひしひしと追ってきた。
これほどまで徹底してショートカットしたのか。これほどまで北海道の技術者たちは蛇行部を嫌ったのか。
これらの図面にはショートカットヘの執着がにじみ出ていた。それまで全国各地の河川改修の図面を何百枚も見てきたが、これほど強い執着、いや執念を感じさせる図面に出会ったことはなかった。
私は図面から迫ってくる執念に内心たじろいでいた。
たじろぐ私を見透かしたように、その先輩技師は、
「なぜ、これほどショートカットしたと思う?」と聞いてきた。わかりきったことを今さらと思いながら、
「洪水の流下能力を上げるためでしょ」と図面に目を向けたまま答えた。私のそっけない口調に、「それだけじゃないんだよ」と優しく論すような返事が返ってきた。
「流下能力を上げるためだけではない?」その返事に私は振り返った。彼はニコリと笑って頷いていた。
その老先輩技師から思ってもいなかった言葉が出てきた。
「ショートカットは石狩川の川底を下げるためだよ。川底を下げて石狩平野の地下水を下げたかったんだ」
「地下水を下げる?」
「そう、石狩川の流速を速めて、その流速の力で川底を洗掘させる。それで石狩平野の地下水を下げたんだ」
私の全身に鳥肌が立っていた。その言葉の意味を理解できたのだ。
そうか、この執念は石狩川平野の地下水を下げるための執念だったのか!

つまり水をたっぷり含んだ泥炭層から水を抜くために石狩川の水位を下げることが必要だった。なんだか田口Tomorrowのナレーションが聞こえてきそう。いやもう、放映されてたりして。
山と船で攻めにくい

遠浅の海にかこまれた鎌倉だが。

鎌倉は狭い、いや異常に狭すぎる。さらに、鎌倉は朝廷の京都から離れすぎている。日本史の中で「最も狭く小さな首都はどこか?」と問われれば、自信を持って「鎌倉」と答える。(略)鎌倉は狭い、そして、これ以上広くなれない土地である。(略)
頼朝は天下を治めるために鎌倉に構えたというより、この鎌倉という鉄壁の防御都市に閉じこもってしまった、という表現のほうが似合う。

それはインフラが整備されないまま流民でふくれあがり疫病が蔓延した不衛生な京都を嫌い、流民のいないクリーンな鎌倉を選んだという結論。
それよりも「ひきこもり」気質な頼朝って、実朝の文学につながるのかなあ。
昭和30年代の新潟の胸までつかる

田植えの映像を見て

あの新潟の映像を見た帰りの関東平野は違って見えた。
家康は関東平野を洪水から守るため治水事業を実施したのか? では、関東平野の何を守ろうとしたのか? いったい関東平野に守るべきものなどあったのか? 家康が江戸入りした当時、関東平野は大湿地帯で、守るべきものなど何もなかった。そう、関東平野には洪水から守るべきものなどなかった。
家康が見た関東平野の風景は、あの新潟の芦沼の風景だったのだ。わずかな農民が胸まで泥に浸かってへばりついている光景を見たのだ。
家康が行った利根川の治水事業は、関東平野を洪水から守ることではなかった。関東の湿地の水を抜く。水抜きをして湿地を乾かす。湿地を乾田化して広大で肥沃な土地を生み出す、この一点であった。それが利根川の治水事業の原点であった。
沖積平野の治水は「洪水から守る」防御ではなかった。「国土を生む」という攻撃であった。

大陸につながる日本海と雪のない太平洋側が最短で連絡する地点とは。

今の福井県の若狭の敦賀湾と、太平洋側の伊勢湾を結ぶ線である。地図上の直線距離で、たった100kmしかない。
これで日本の都は、その直線上にある現在の岐阜・濃尾に決まりか。

そこから3000年前のシミュレーション。敦賀に上陸、雪をのがれて南へ。峠を越えると盆地で大きな湖(琵琶湖)。舟で進み湖の出口の川を進むと、今では埋め立てられた巨椋池という京都の南にあった大きな池に着く。そこから高台に向かう。

巨椋池から鴨川にそって3kmほど歩いて進む。するとそこには、冬の北風を防ぐ山々が屏風のように配置され、南に開けた明るい土地がある。
そこが、京都だ!
敦賀湾に上陸して、日本列島を横断してきた。その間、自分達の足で陸路を歩いたのは、深坂峠越えのたった20kmと最後の3kmだけだった!

広島は海の城。

関ケ原の戦いの総大将・毛利輝元は一貫して海を駆け巡る戦国大名であり、農耕する戦国大名ではなかった。その物的証拠もある。
広島城がそれである。
1591年、毛利輝元は新しい本拠、広島城を建設した。この広島城は農耕を念頭に置かない海の城である。
広島城の背後には中国山地が迫り、城の前面は瀬戸内海に直接面していた。そこに流れ込む太田川はいくつもの州を形成していたが、大雨のたびに州を崩し流路を変え荒々しく流れ出ていた。
毛利輝元は河口デルタの一番大きな州、つまり海の中の広い島の「広島」に城を建造した。
毛利輝元の目線は陸地ではなく海に向いていた。それは、いざとなればいつでも身軽に海上へ飛び出して行く、と言っているようだ。

交流軸は栄える

[低迷していた]滋賀県が、高速道路の開通と同時に目覚めた。
東名・名神高速道路が開通して15年経った1980年には、他の20県近くをゴボウ抜きして全国第5位となっていた。その後の数年間は第5位あたりで頭打ちを示したが、北陸自動車道が開通するとまた躍進が始まった。
北陸自動車道が開通し滋賀県はさらに躍進し1987年、遂に一人当たり製造業粗付加価値額で全国第1位となった。それ以降の現在までの14年間、滋賀県は不動の第1位の座を確保している。