グロテスクな教養

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

著者近影が金井美恵子そっくりな気がする、などといい加減なことを書いていることからもわかるように適当に読んだ。

エリートと呼ばれる少数の、それなりに才能のある、あるいは、それなりの才能しかない男の子たちの迷走を見つめて

百年前のニューアカ糾弾

「偉大なる暗闇」だった漱石。百年前のニューアカを糾弾する白鳥。

正宗白鳥は、『吾輩は猫である』以前には「柳村氏〔上田敏]などとは異り、殆んど読書社会の注意を惹かなかった」文科大学講師夏目金之助の「世間の事業とか名利とかを殆んど念頭に浮かべていない」暗闇ぶりを最初に称賛した者のひとりである。

能ある鷹は爪を隠くす。知ったか振をする者に真に深く知れるはなし。さるに盲目千人の世の中は、頻りに横文字交りの文章を片々たる小雑誌に掲げ、西洋文学を鼻の先きにぶら下げる手合を、直ちに博学者と思い込み、深く蔵して沈黙を守れる真正の学者を認むるの眼力なし。

 ニューアカ

教養主義が、すでに考察してきたように、高学歴読者たちのお友だちの輪であったのにたいし、ニューアカは著者たちの特権的友情共同体のような外観を整えていたのだ。この意味で最もニューアカ的な書物として、細川周平の『トランス・イタリア・エクスプレス』(1985)を挙げたい。(略)
腰帯には「限りなく<差異>を生みだす半島の文化を横断する80年代のイタリア紀行」とある。
このように書くと、細川周平のさわやかな著書を不当に貶めているかのように映るかもしれないが、そうではなくて、時を経てパロディになりうるほど、ニューアカの最良の部分を体現していたということなのだ・・・

自分にも関係することになると途端に甘くなる著者

著名学者でも、自分の抱えるオーバー・ドクターを、「老舗人文書出版社」の出すアンソロジーや共訳者のなかにギューギュー押しこんで業績作りに手を貨してやったり、科研(文科省科学研究費補助金)の出版助成金でまかなう共同研究の成果や、何かのお金で招待せざるをえなかった外国人学者の講演集の翻訳をなるべく立派な業績に化けさせたりするのに、出版社および編集者との連携は欠かせないと想像できる。これは、非難でも暴露(大学関係者なら誰でも知っている)でもなく、現在の状況では致し方ないことであるのを強調したい。大学の形式的業績主義と若い人文系研究者の就職難と人文書出版社の苦しい事情とが、いま、教養の灯りをまた一つ消そうとしている。

オチがこれ

嗚呼、女の子いかに生くべきか。
「男の子いかに生くべきか」の衰退をめぐる長い長いお話のあとで、はじめてこの問いが切実さをもって迫ってくる。自分自身を作りあげるのは自分自身だ、という教養の定義を最初に掲げた。この言葉が現在では通用しなくなったわけではあるまい。人は、生きるということにたいして、残念ながらそれほど冷淡にはなれないのである。むしろ自己形成というものが、残酷なまでに大衆化され個性化されてしまったのだ。「女の子」たちは、いま、この試練の先頭に立っている。